昨日の投稿に対するmariさんのコメントに触発されたので、もう少しコミュニケーションの哲学について書きます。いま手元にある文学理論の本が『現代文学理論』(土田知則他, 新曜社,1996年)のみなので、この本を参考にしながら。
1.言語コミュニケーションの六要素
文学や言語哲学の領域で言語コミュニケーションについて考えていく際に基本になるのが、ヤコブソンが「言語学と詩学」(『一般言語学』に収録)のなかで提唱した言語コミュニケーションの六要素。ヤコブソンによれば、言語コミュニケーションは1)発信者、2)受信者、3)メッセージ、4)コンテクスト(文脈)、5)接触、6)コードによって構成される。
発信者と受信者は分かりやすい。メッセージは、実際に語られ、あるいは書かれた文章。コンテクストは、少し定義が難しいが、その文章が生み出された状況くらいにとらえておけばいい。接触は、メッセージが発信者から発信され、受信者によって受信されるということ。コードは、日本語やフランス語のように、発信者と受信者の双方が共有している基本情報。
例えば日本の学校で、教師が生徒に「明日までに作文を書いてきなさい」と言っている状況について考えてみる。この場合、1)発信者は教師、2)受信者は生徒、3)メッセージは「明日までに作文を書いてきなさい」という文章、4)コンテクストは、学校という場所で教師が生徒に対して宿題を与えているという状況、5)メッセージは教師から生徒へと伝わっているのだからここには接触があり、6)コードは日本語という共通言語。
正常な言語コミュニケーションが行われるためには、この六つの要素のすべてがきちんと機能している必要がある。仮にこの発言において発信者と受信者のコードが一定でなかった場合、例えば教師が日本人で生徒がフランス人だとしてみた場合、このコミュニケーションは正常に作用しない。発信者から受信者へとメッセージは伝わっているのだが、言語というコードが共有されていないために、受信者の側のコード変換がうまくいかない、つまり受信者がメッセージの意味を汲み取れないからである。
さて、ここまで確認したうえで、ようやく昨日の話へと接続していく。ヤコブソンが提唱したコミュニケーションのモデルは「言語について」という限定付きのものであった。しかしこのモデルは、言語以外のコミュニケーションにも応用することができるのではないだろうか。mariさんが「阿吽の呼吸」や「察する」という行為でも言葉ではないメッセージがなされている、と書かれていたが、まさにその通りで、空気を読んだり察したりすることが求められる状況でも、たしかに発信者から受信者へとメッセージは送られているのである。問題は、メッセージの送り手と受け手とがコードを共有していない場合が多々ある、そのために受信者がメッセージを解読することができない、さらにはメッセージの存在にすら気付かない、発信者の側からすれば、「こっちがメッセージを送っているのに反応がない」と感じてしまう場合があるということであろう。
「察する」ということに関して、僕が渋谷でパーティー関係のバイトをしていたときのこと。パーティーの準備中、会場には僕と新人の二人しかいない。すでに小丸(テーブル)は配置されている。僕は小丸のうえにクロス(白い布)を置き、それからシルバー(フォークやナイフ)とソーサー(皿)のある方に向かう。小丸にクロスを置いてシルバーとソーサーを取りに行くということは、その間におまえはクロスを小丸の上に広げておけよ、そうすれば僕がシルバーとソーサーを持って帰ってきた後、そのまま小丸の上にそれらをセットできるんだから、というメッセージである。ベテラン同士で組んでいるときは、すべてはスムーズに進んでいく。しかし新人の場合、彼はおもむろにワインのコルクを抜き始める・・・
何がベテランと新人を隔てているのか?コードを共有している、していないの差であろうか。逆に僕が新人だったときのこと。先輩たちは忙しそうに働いている。でも、自分が何をすればいいのか分からない。何らかのメッセージが発せられていることは分かっている。しかし、そのメッセージの意味が理解できない。先輩たちがどういうビジョンに基づいて動いているのか、そのなかで僕に何を求めているのかがまったく分からない。
言語外のコミュニケーションの場合には、コードと言うよりもビジョンと言ったほうが通りがいいのかもしれない。同じビジョンを共有するもの同士がひとつの空間の中で活動しているときは、ものごとは割りあいすんなりと進んでいく。しかし、ビジョンを共有しないものと活動をしようとすると、そこでいろいろと衝突が起きてくる。それは僕自身のいまの状況にも重なっていて、ホストファミリーがどういうビジョンの下に生活しているのかが分からない、そうすると何をするにしてもぎりぎりの選択を迫られることになる、やたらと疲れる、胃だって痛くなる。
長くなってきたのでここら辺で無理やり結論めいたことを言うと、通常の社会生活の中で円滑にコミュニケーションをはかっていこうとする場合、ビジョンの共有ということがかなり重要な要素になってくる、ということ。非常に一般的な結論になってしまったけど、結局そういうことなんだと思う。それではどのようにしてビジョンの共有を実現させていくのか、についてはまた今度。それから本当は「2. 現代アートにおけるコミュニケーション:開かれた作品」「3. 西洋的レトリックの歴史」というのを書こうと思っていたけど、さすがに疲れてきたので、それもまたそのうち。
‘08/10/17(夜)