昨日の昼間はチュルリー公園でひなたぼっこ。つれづれなるままに思いを巡らす。大学教育という枠組みの中でいままで学んできたことってなんなんだろう、とか思いながら。


二十歳くらいからいままでに身につけたスキルは、おそらく以下のとおり。1)英語、2)フランス語、3)文学理論、4)現代思想、5)美術史。


英語とフランス語の意義は分かりやすい。外国語の習得は端的に個人の世界を広げるし、同時に社会的にも認められているスキル。それでは他のスキルは?


文学理論と現代思想は、どうも内輪だけのもののような気がする。「文学界」では、「ハリー・ポッター」やパウロ・コーリョ、村上春樹といった人気作家は完全に黙殺されている。それらは、消費文化が生んだ一時的な流行に過ぎないとして見下されている。しかし、多くの人が小説といったときに思い浮かべるのはこういう本だし、また必要としているのもこういう本。


作家が本を書き、それが市場に出回り売れていく。このプロセスの中に、文学理論や批評が入り込む余地なんてない。作品が言葉によって解釈されるのを望むのは、おそらくフランス系のコンセプチュアル・アートくらいのもの。でも、僕にはその現代アートの意義がよく分からない。現代アートは表現者の自己満足?なんでそんなものを金を払ってまで見なければならないの?


夜は例のフランス人の友達と食事。ここでも話題はアート、宗教、哲学、比較文化論へ。なお、かなり込み入った内容だったので、会話はすべて英語。以下、簡単なまとめ。


1)西洋と東洋における言語観の違いについて。西洋では言語、さらに言語によって構成される意味というものが大きな価値を持っている。しかし東洋(ここでは日本)では、言語は必ずしもすべてではない。「一を聞いて十を知る」、「空気を読む」という表現があるように、言語外の情報を言語に頼ることなくいかにして取得するか、といった能力が知性のひとつの基準として日本では採用されている。


2)この相違は、「真実」のありかにも違いをもたらす。禅(仏教?)の重要な概念として「不立文字」というものがあるが、言語として表象することができないところに「真実」がある、というのは東洋に特徴的な考え方。


3)言語と「真実」との関係の相違は、古代ギリシアにおける弁証法(dialectique)と禅問答との違いにも顕著に表れている。古代ギリシアでは、アゴラ(広場)において議論を交わし、その議論の正当性を第三者が判定するというのが、「真実」を見出す方法として採択されていた。しかし禅問答では、例えば師匠が「カラスは白い」と言い、弟子が「はい」と納得すれば、そこで「真実」は見出されたものとされる。第三者からすれば何を言っているのかまったく分からないが、この二人だけにはそこにある言語外の「真実」が把握できている。


4)だが、西洋において言語外の領域がまったく価値を持たないのかといえば、必ずしもそういうわけではない。例えばラカンは大文字の「もの(Chose)」を、言葉にすることができない、しかし根源的な生の力として導入している。言葉(signifiant)の連鎖では、決してChoseに達することはできないのである。


5)言語の持つ限界は、宗教においては否定神学(theologie negative, apophatique)として表現されている。ルドルフ・オットーは、宗教的な体験の本質としてヌミノーゼ(numineux, そこに引きつけられながらも、同時に恐れを覚えること)という概念を紹介しているが、言語によって意味を汲み尽くすことができないものに対する恐れと、それに伴う人間の限界の開示が、宗教の重要な役割のひとつなのではないか。


6)ヌミノーゼは何も宗教だけに限ったものではない。シモーヌ・ヴィエユは、「美は人を引きつけ、同時に突き放す」というようなことを言っている。「美」もまた、人に憧憬と畏怖を抱かせるのである。