前記事のつづきです。
もっと深く掘り下げて研究なさった方、タイトルはわたしレベルの大見得ですので、どうかお許しください。
家から家への奉仕をしていた頃、あるお話し好きなおじさんに会いました。
その方は、宗教にとても詳しくてわたしに教えてくれます。
数回訪ねているうちに家に上げていただいたことがありました。
お邪魔してびっくり、テーブルの上はいろんな書籍が所狭しと積み重ねられ、全て読んだとおっしゃる。そして、その中から、エホバ関係の書物を3〜4冊取り出し見せてくださいました。
どうもいろいろな宗教について詳しかったのは、赤い表紙の「探求」の本を読破していたからのようでした。
どういう理由でWTの書物をそんなに持っていたのか聞けなかったのですが、この方と会話するにはわたしも「探求」の本を読んでおかなければと思ったのでした。
新参者のJWには見たことのない本でしたが、行動を共にした姉妹から1冊いただき読むことが出来ました。
世にある他宗教のことが詳しく書かれていたので、聖書が根本とお知らせするには可視化するのがいいと思い、聖書年表に他宗教の出来事を乗せてみました。


表を制作してみて感じたことは、いろいろな宗教はすべて
創世記11:9
それゆえにそこの名ははバベルと呼ばれた。そこにおいてエホバは全地の言語を混乱させたからであり、エホバは彼らをそこから地の全面に散らされた。
の後に起こっているということです。
人々は一つの教え?神?感覚?(なんか説明しにくいですが)を持って散らされた。その後さまざまな人の考えやら、すり替えられた教えが混じって宗教というものが出来上がったのではないかと、思いました。
ならば、教え?神?感覚?の源流というものがあり、それはすべての中に存在していて、宗教というくくりでなくても感じられるものかもしれないと思い、それは前記事の私の疑問のわたしなりの答えとなりました。
こうして、世と線を引いたように区別することは逆にあってはならないことと確信を持つことになったころ、ちょうど教理の嘘を知ってJWを辞めることとなったのです。
そして、この記事を書こうとしていたら、先日のテレビ番組で池上彰さんがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の成立ちの説明をしていました。根底にあるものは一緒らしいです。単純なわたしは原点に戻ればいいのにと思うのですが、そうはいかないのが人間なのでしょう。
JW中に、お話し好きのおじさんには表のプリントを渡すことが出来ました。あとはバトンタッチしてもうお会いすることもないのだけれど、わたしの辛い状況を聞いてもらったとき、そんな相手を選んだあんたの責任だからと言って下さいましたね。
ほんとそうでした。
聖書から責任のとり方を学んだから、今ハッピーになりましたよ!って話したいな。