今朝は、零度で地面がうっすらと白く成っていた。
午後から一時止んで、薄日が差したので、いつものルートに散歩に出かけた。
弱い北東の風だったので、気温は5℃ながら寒くなかった。
沢山着込んで出かけたので、中間地点の空港大橋では、暑くなってきて、1枚脱いで調節した。
その後、今年初めての歯科通院に出かけた、型取りで、次回詰物をしてくれるそうだ。
待ち時間が5分ほどで、短くいつも時間つぶしに読む「荘原歴史物語」は、昭和14年(1939年)の新川の廃川を読んだ。
天保2年(1831年)松江藩の政策で、斐伊川は、山間から斐川平野に出た所で東に直角に宍道湖に向かって流す新川が、開削された。
その頃は、我が家付近は宍道湖で、約100年かかって、出雲空港付近まで、5kmほど川砂で埋まった。
100年間で大量の砂が流れて、斐伊川本流同様、天井川になり、度々氾濫するように成り、廃川が決まった。そうだ。
川跡は、昭和30年代から住宅地に指定され、昭和時代は新興住宅地になり、私は新しい家が次々建つのを、見ながら育つた。
明治18年生まれの、私のばあさんに、昭和9年の大洪水では、法華経土手が決壊し、下庄原町部西側の我が家は、1階の雨どいまで、水位が上がったと聞いている。
斐伊川支流だった新川跡に住んでいる今は、宍道湖より水位が低い回りの田圃より2mほど高い。
これは新川堤防をならしたからだ。
昭和47年の水害は、斐伊川上流では無く宍道湖水位の上昇で、堤防のかさ上げと、排水ポンプ場の増設で、昭和50年代以降は、安心して生活できる地域になった。
午後から一時止んで、薄日が差したので、いつものルートに散歩に出かけた。
弱い北東の風だったので、気温は5℃ながら寒くなかった。
沢山着込んで出かけたので、中間地点の空港大橋では、暑くなってきて、1枚脱いで調節した。
その後、今年初めての歯科通院に出かけた、型取りで、次回詰物をしてくれるそうだ。
待ち時間が5分ほどで、短くいつも時間つぶしに読む「荘原歴史物語」は、昭和14年(1939年)の新川の廃川を読んだ。
天保2年(1831年)松江藩の政策で、斐伊川は、山間から斐川平野に出た所で東に直角に宍道湖に向かって流す新川が、開削された。
その頃は、我が家付近は宍道湖で、約100年かかって、出雲空港付近まで、5kmほど川砂で埋まった。
100年間で大量の砂が流れて、斐伊川本流同様、天井川になり、度々氾濫するように成り、廃川が決まった。そうだ。
川跡は、昭和30年代から住宅地に指定され、昭和時代は新興住宅地になり、私は新しい家が次々建つのを、見ながら育つた。
明治18年生まれの、私のばあさんに、昭和9年の大洪水では、法華経土手が決壊し、下庄原町部西側の我が家は、1階の雨どいまで、水位が上がったと聞いている。
斐伊川支流だった新川跡に住んでいる今は、宍道湖より水位が低い回りの田圃より2mほど高い。
これは新川堤防をならしたからだ。
昭和47年の水害は、斐伊川上流では無く宍道湖水位の上昇で、堤防のかさ上げと、排水ポンプ場の増設で、昭和50年代以降は、安心して生活できる地域になった。