はじめに

最近は更新が滞ってしまっております。

気づけば2025年も3週ほど経過しようとしていますね。

あ、あけましておめでとうございますでした、はい。笑

 

今年は昨年の前半に比べると、更新のペースを落とす予定です(2週に1回ほどを目指したいです)。

インプットを大量にすることを今年の目標にしているので、ブログを通じたアウトプットは控えめになりそうです。

 

そんな中ではありますが、今日は久しぶりに読んだ本について紹介していきたいと思います!

 

  方言はなぜ存在するのか

今回紹介するのは以下の本です。

 

大西拓一郎 (2023).『方言はなぜ存在するのか:ことばの変化と地理空間』大衆館書店. 

 

 タイトルからも分かるように、方言についてものすごく細かい内容まで議論されています。

専門でない僕には理解するのが大変で、正直読み飛ばしたところもありましたが、このブログで書いてきたような「ことば」の問題と関係する部分も多く、楽しく読ませてもらいました!

以下ではこのブログの内容に関係がある部分を抜粋し、紹介していきたいと思います。

 

方言が生まれるのは、言語が変化するから

もとから地域ごとにその土地特有のことばがあるということもあるでしょうが、ことばが変化をするから方言が生まれるのだそうです。

その変化は言語をより合理化・経済化するためです。一方、言語は人々に共有されてなんぼですので、変化が激しすぎてもいけません。その土地の人々がどれだけ変化を受け入れるかで、言語の違いが生まれるかが決まります。

 

地名と人名

語形に地名や人名が含まれることがありますが(例:センダイイモ)、地名はその土地では使われず、人名はその土地で使われる傾向があるようです。

言い換えると、「地名=遠隔 / 人名=近接」ということになります。

英語の単語などでも似たような現象があるのか、機会があれば調べてみたいと思います!

 

民間語源は語の安定につながる

元々の語源とは異なるが、その土地の人々が語源を独自に解釈すること(そして、新しい言葉を作ること)を民間語源というそうです(例:ひっつき虫)。

誰かが決めた言葉ではなく自分たちで解釈して「作った」言葉なので、人々にとってその言葉は「安定」した言葉になります。

 

混淆

捕まえる+捕える→とらまえる

のように、「同じ意味の言葉が合わさり、同じ意味の言葉を作ること」を混淆というそうです。

これにより、たとえば「4種類の構成要素(単語)から2個を選ぶ(2つの単語を合わせる)順列」のように、理論上は8通りの言葉が作られますが、通常は1〜2通りしか生まれないようです。

 

有縁性・有縁化

記号は「意味と形の組み合わせ」であり、そういった意味では言語も記号ですが、言語には意味と形の組み合わせに必然性がありません。言い換えると、言語は恣意的であるということになります。

でもこの恣意性は、言語の使用者である人間には意識されません。ですが、たとえば外国語学習をするときに感じるように、恣意性を意識することになると人間には負担がかかります。

そこで、人間は言葉を「有縁化」するようです。「有縁化」とは、「人間の知の範囲内における形と意味のつながりの合理化すること」を指します。

有縁化は、意味と形のつながりの合理化という意味では言語内的変化ですが、他にもたとえば人間の羞恥心の変化などによって有縁化が起きることもあるため、時間性や空間性も大切になります。

また、有縁化は「有縁化→明確化→意味と形のつながりが自然になりすぎて意識されなくなり恣意性を帯びる→また有縁化」というようにループが起こることも知られています。

 

言語の変化には行政区域の影響もある

教員の異動や学区などは言葉の変化に影響します。当然といえば当然ですが、ことばを使うのは人間なので、人間が移動すれば(あるいは移動に制限があれば)、言葉も変化(あるいは変化しない)が起こります。

そう考えると、インターネットでいつでもどこでも繋がれる現代では、移動こそなくてもことばの変化は大きくなりそうですね。

 

文法は長寿、語彙は短命

これは文法よりも語彙の方が変化が激しいことを表しています。必ずしも広がり方やその速度とは関係していないようですが、考えれば分かるように文法が変わると語彙が変わるよりもコミュニケーションには大きく影響するので、文法よりも語彙の方が変化は激しくなりそうです。

そう考えると、文法に大きなインパクトを与えなくとも、語彙などでは日本語話者も英語に変化をもたらすことができるかもしれません。

 

  まとめ

とても簡略的なまとめですが、いかがだったでしょうか?

様々な日本語の具体例を用いて「方言」を解き明かしてくれる素晴らしい本でした。

 

僕は英語学習者/指導者として、こういう本を読むと英語学習・教育に結び付けたくなるのですが、今回改めて感じたことは、「ことばは自由」であることです。

より正確にいうと、ことばは自由であるべきなのです。

 

人々がコミュニケーションをする中でことばが使われ、その営みの中で有縁化をはじめとする変化が起こるわけですから、日本語話者が英語を学ぶ際には英語に影響を与えてもいい/与えるべきだと改めて思いました。

 

そうやってことばは豊かになっていくものですし、それによって我々人間の思考や感情もより自由になっていくはずです。

そんな可能性を秘めているのが英語学習・教育なのですから、英語という言語の「ルール」の押し付けはやはり間違っていますよね。

 

もちろん目標にする言語モデルはあってもいいけれど、それによって言語学習が不自由になるのはあまりにももったいないですよね。

 

「ことばは自由」を合言葉に、これからも英語学習・教育に向き合っていきたいです!