そういう訳で、2人を欠いたものの、年を越して年度末にそのプロジェクトは無事納品することが出来た。
しかし私はその時点でおかしくなっていた。
ちょっとしたミスでフロア全員が聞こえるような大声で部下を叱責したり、つまずいちゃっている人の仕事を導いてあげる代わりに自分で処理するようになっていた。
それを自分で気が付けなかった。それまで同様に普通に働いているつもりだったが周りからはやはりおかしく見えたと後から聞かされた。
その後本来の仕事である自社パッケージの開発およびカスタマイズ関連のチームに配属されたのだが、リーダーの座は入社2年目の若い社員に任され、10年選手の私がある意味ヒラのPGになっていた。ある意味屈辱であった。
あの頃はまだアジャイルなんてちょこっと耳に挟むくらいで、会社の仕事は依然ウォーターフォールであったので、設計が完了したら「書いて叩いてテストしてバグを潰す」のを各々が来る日も来る日もやる訳だが、特にカスタマイズ案件に関しては予算絡みで修正したくても修正できないという耐え難い日が続いた。
同じチームに残っていた新入社員の面倒のレビューもやらなければなかったし、溢れてしまうのは時間の問題だったのかも知れない。
この辺りから酒に頼るようになる。はじめは終電までには帰るようにしていたが、そのうち酒量が増え、足元がおぼつかなくなって店員からタクシーに押し込まれるようになり、マッサージ屋に泊まるようになり、酒が残ったまま出社することが当たり前になってきた。お金がなくなれば借金をしてまで飲んだ。
こうなると後はコロコロと転落していく。遅刻が増え、無断欠勤が相次ぐようになり、個人的に呼ばれて面談をすることになった。
ここで他人に指摘されて自分がおかしくなっているのに気が付いたのだが、時すでに遅し。
面談では「心を入れ替えて頑張りますので」とか言い繕ったが、従姉の死から後にずっと心に抱えてきた爆弾が破裂してしまったのである。
大量の飲酒と精神的な重圧で体調を崩し病院にお世話になることになる。精神科であった。
(続)