アサミが幾分落ち着きをとり戻したころ、ようやく母が到着した。
母はすぐに遺体と対面し、霊安室から出るときには、ハンカチで目頭をおさえていた。アサミは母の肩に手をやり支えるようにしながら、壁ぎわの椅子に母を座らせ、自分もとなりに腰をおろした。
「なんでこんなことになったのかねぇ・・・」
鼻をすすりながら、母はぼそっと呟いた。
父は元漁師だけあって体つきは剛健そのものだし、体力には自信をもっていた。アサミの記憶では風邪ひとつひいたことがない。ここ数年は髪に白いものが目立ちはじめ、顔の皺もふえてきて、さすがに老いを感じさせるものがあったが、まだまだ溌溂として若々しかった。
お酒が大好きだったので、病気になるとすれば肝臓だろうとアサミは思っていた。まさか心筋梗塞で倒れてそのまま死ぬとは、夢にも思わなかった。
アサミが黙っていると、
「ほんと、人の命なんてわからないものだねぇ・・・」
と母は言葉をつないだ。
母はタクシーで二時間以上もかけて来たのだが、道中、こんなに時間を長く感じたことはなかったという。それはアサミもまた同じだった。
マンションから出たアサミは、歩いて5分もかからない最寄の地下鉄の駅すらも遠く感じて、すぐにタクシーを拾った。病院までは20分ほどしかかからなかったはずだが、見慣れたはずの町の風景が、まるで知らない町のように見えて、やっぱり夢なんじゃないかと思えるぐらい、フロントガラス越しの外の景色がゆっくりと流れていった。信号待ちのときには、時間がとまったような気すらした。
病院が近づくにつれて眩暈がしそうなほど大きくなる心臓を鼓動を感じながら、アサミは、ドアの車窓に映る自分の顔をながめて、こんなことならもっと孝行しとくんだったと後悔した。
薄暗い病院の廊下には、取り残されたように母子ふたりだけになっていた。
肩をおとした母に寄り添いながら、正面の壁を見るともなくみつめていると、父の顔が幾重にも重なって浮かんでくる。最後に見えたのは、自分が親を困らせたときの、ムスッとした不機嫌な表情だった。
アサミは高校生のころ、一度だけ家出をしたことがあった。理由は他愛もないことだった。そのころ世間を賑わせていたバンドブームに触発されて同級生とバンドを組み、その勢いでプロのボーカリストを目指そうとしたが、その想いを父に話したところ、猛反対された。それに反抗するかたちで家をとびだし、友達の家に転がり込んだのだが、今にして思えば、それは一人娘として大事に育てられ、親の前ではつねにいい子にしていなければいけないという強迫観念からの脱出だったような気がする。
あとになって母に聞いたところによれば、アサミの置き手紙を見て動揺し、すっかりうろたえてしまった母とは正反対に、父は何も言わず、うろたえることもなく、黙って晩酌を続けたという。
母が「こんなときに!」と怒鳴ると、父は「心配しなくともあいつは帰ってくるよ」と悠然とかまえていたらしい。
アサミは父も母も必死になって自分を捜すと思っていた。友達の家で布団に入ったときも、父母の狼狽した姿を思い一睡もできなかった。それで結局次の朝、とぼとぼと家に帰ったのだが、「いったいどこに行ってたの!」と叱りつける母を横目に、父は何事もなかったかのように新聞を読んでいた。
ガミガミとまくしたてる母をうざったく感じながら部屋に戻ろうとすると、父は視線を新聞におとしたまま「気は済んだか?」と一言だけ言った。
アサミは何もこたえずに階段をのぼったが、部屋に入りベッドに横たわると、家出の理由が単なる反抗だけではなく、親を心配させてやろうとする甘えがあったことに気づいた。父はそれを見すかしていたのだと思った。悔しかった。自分の思い通りに動いてくれなかった父をちょっぴり恨めしく思った。だが同時に、何故か妙な安心感につつまれていた。
天井を眺めながら、もう家出はすまいと、心に決めた。
「ねぇ、おかあさん」
「なに?」
「親戚とか職場の人には連絡したの?」
母はここに到着するまでの間、携帯電話で数人に連絡をとったという。みな一様に驚いて、母が病院名を伝えると全員がこれから向かうと返事したらしい。
「じゃあ、そろそろ誰か来るね」
母が連絡をとった人はみな地元の人だ。こんな時間では電車もないから、全員が二時間以上もかけて車で来るのだろう。明日は平日だというのに、すでに父は亡くなっているというのに・・・。アサミはあらためて父の信望の厚さを思った。
「そういえば、さっき県職員の人が来ててさ、おとうさんりっぱな人だった、って言ってたよ」
母は何もこたえず、眼を閉じた。
「りっぱなひとかぁ」そうアサミが繰り返すと、
「人は誰だってね、死ねばいい人になるもんだよ・・・」
母は眼をつむったままだったが、ちょっとだけ口元がゆるんだ。母は皮肉っぽくそう言うけど、それは長年連れ添った夫に対する愛情の裏返しなのだろう、とアサミは思った。
「せめてねぇ、死に目に会えればよかったんだけど・・・」
「ほんとね、最期ぐらい看取ってやりたかったなぁ」
アサミはそうこたえながら、父は最期に何を憶ったのだろうと考えた。心筋梗塞なんて当然自分はなったことがないから、その瞬間がどんなものであるかは想像すらできない。倒れてから息を引きとるまではしばらく時間があったらしいが、その間も意識はなかったらしい。意識を失ったから倒れたともいえる。となると、父は何を憶うことなく死んでしまったということなのだろうか。自らの過去をふり返ることもなく、ぷつりと人生が絶たれたのか・・・。苦しむことなく逝ったと思えば、それはそれでよかったとも思えるが、今まで苦労して築いてきたものを何一つ顧みることなく逝ってしまうのは、何か淋しいような気がする。
でももし、倒れる直前、0コンマ数秒ぐらいのあいだに最期の意識があったのなら、父はいったい何を憶ったのか。仕事のことか、家族のことか、これまでの人生についてか・・・。アサミはそんなことに思い巡らせたが、それもまた、今となっては知る由もないことだと思い、
「でもさぁ、そんなに苦しまずに死んだんだよね。おとうさん」
と自分を納得させるように言った。
母は「どうだろうねぇ。そうだといいけど」とこたえ、眼を開けて天井をみつめた。
天井の蛍光灯が、冷たい無機質な光を放っていた。
※明日は諸事情によりお休みさせていただきます。
