あれはいつだったろう?

ふとテレビをつけたら、外国の映画監督の生涯についての特集をやっていた。


もう10年以上前。


内容はあまり覚えていないけど、これだけは覚えている。



「私の映画に意味を求めてはいけない」



意味はわかるようでわからないけど、衝撃的な一言だった。



何かをするたびに、何かを言うたびに、そこに意味を求められてしまう。


人は何かあるたびに考える。


「考えろ」


「見出だせ」


でも、この世に同じ人なんかいないから、「愛」という一言でさえ、人それぞれ意味が全然違う。



「私の映画に意味を求めてはいけない」



作り上げられる物に意味を求めようとすると、何かに捕らわれてしまい意味なんか見つけられないのかもしれない。


映画、舞台、料理、絵、言葉…etc…。



意味を求めるという行為は、結果、行動範囲をせばめてしまったり、楽しみかたを失ってしまうのではないだろうか?



ふとこの間観た寺山さんの「奴婢訓」と僕が経験した寺山さんの脚本の「はだかの王様」とこの言葉が結び付いた。



人の心は千々に乱れて自分のことすらわからない。

意味を求めたところで、それはその瞬間のものでしかなく、またしばらくするとその意味も全く別のものに変わってしまう。


だから「私の映画に意味を求めてはいけない」ということなのだろうか?



無意味だと思うことでも、意味が出てくることも沢山。


「無駄」



「無意味」


という言葉は、様々な楽しみや可能性を奪っているのではないだろうか。



「これはどういう意味ですか?」


「意味なんかない」


「答えなんかない」



その時の自分の心がすべてだと。