個人も組織も、多様性のあるものほど強い。
歴史を見ても、多様性を受け入れた国家は非常に強いことを実感します。
たとえば、歴史上の人物に、モンゴル帝国の5代目カアン(皇帝)・クビライ(フビライ、1215〜1294)がいます。
彼は、中国全土を支配下におさめ、大元ウルスの最盛期を築き上げた人物です。
鎌倉時代の日本にも二度ほど遠征を試みています(元寇・1274年、1281年)。
彼のすごさを感じるのは、多様性を柔軟に受け入れるその姿勢です。
民族や出自に関係なく、能力がある人をどんどん登用していったのです。
たとえば、クビライが南宋を攻略する際の総司令官となったバヤンという人物は、もともとはフレグウルス(イル=ハン国。クビライの弟・フレグが、現在のイランの地に建国した国家)の出身です。
弟のフレグが、兄クビライの宮廷に年賀の使節を送った際の一員で、その聡明さをクビライが非常に気に入り、彼をスカウトして自分の家来にしたのです。
そして、その数年後、いよいよ南宋を攻撃して中国全土を手中に収めるぞというときに、クビライは彼を総司令官に抜擢。なんとその当時、バヤンはまだ30代の半ば。
有能であれば、年齢や経験にこだわらず人材を登用するというクビライの姿勢がよく表れています。
個人で言えば、多様性とは、引き出しの多さと言えるでしょう。
「自家薬籠中のもの」という言葉があります。
これは、唐の時代、武則天(624〜705。唐の3代目皇帝・高宗の寵愛を受けて皇后になる。高宗の死後、あとを継いだわが子2人を廃し、自ら皇帝として即位し、ほぼ半世紀にわたって国政の実権を握った女傑)の知恵袋だった宰相・狄仁傑(630〜700)が言ったとされる言葉です。
彼は武則天の命を受け、科挙を通じて非常に優秀なブレーンを集め、当時の乱れた政治を立て直すことに尽力します。
その見事な手腕から武則天からは「国老」と呼ばれ、大きな信任を得ていました。
その彼のブレーンの1人に元行沖という非常に博識な人物がいました。
彼があるとき、狄仁傑に「私もあなたの薬箱の末席に置いてください」とお願いします。
その際に、狄仁傑が答えた言葉が
「自家薬籠中のもの」。
つまり、「君はすでに私の薬箱の中で欠かせない人だよ」と。
この言葉に、狄仁傑の自負を感じました。つまり、自分の薬箱(側近集団)には、多種多様性な薬(ブレーン)があるから、何が起こっても、たいていのことには対応できる。どんなことが起こっても平気だ、と。
そして、次世代の玄宗の開元の治を支えた優秀な官僚はすべてこの薬箱の中から出ているのです。
偏見なく、「いい」と自分で思ったら、どのようなものでも貪欲に受け入れていく。
そうした姿勢で生きている人は、その懐の深さゆえに、自ずと物事にも幅広く精通していくし、経験も豊富になります。つき合っている人たちを見ても、多種多様です。さまざまな世界にまたがって知り合いがいる。
こういう人たちは、非常に魅力的だし、人間としても非常に強いと思います。
彼らのように、自分の周囲に多様性を持ち続けるために大切なことは、自分の世界に閉じこもってしまわないことではないでしょうか。
とりわけ、年を重ねるにしたがって、このことは強く意識する必要があると感じています。
年をとるにつれ、人間はとかく自分の世界に入りがちです。
自分の好きなことだけをやって、同年代の自分と気の合う人たちだけとつき合う。
逆に、年齢や性別、属性などがバラバラな多様性の中に身を置くと、なんとも居心地の悪さを感じてしまう。
しかし、似た者同士、気の合う仲間同士だけのつき合いにとどまってしまっていては、成長できるはずがありません。
集まっても似たような意見しか出ず、会話もマンネリ化していく一方です。
そこにどっぷりとはまってしまえば、世界はどんどん狭まっていきます。
そうなれば、自分自身も元気さを失っていきます。
いい例が、江戸時代です。
鎖国をして、外との交渉を絶ってしまったがために、日本は世界の大きな流れから取り残されてしまいます。また、体もどんどん小さくなっていった。日本人の平均身長や体重は、江戸時代が最低です。
徳川政権は、日本史上、最低の政権だと思います。
なぜなら政治のもっとも大切な役割は、市民にご飯を食べさせることにあるのですから、身長や体重が小さくなっていく政治に高い評価を与えられるはずがない。
それを倒すことによって実現した明治維新は、徳川250年の遅れを取り戻すための運動だったと思っています。