旅に出ると、新しい気づきの連続です。
たとえば、海外では列車の遅れなど日常茶飯事です。しかも、半端でない遅れ方をすることも少なくない。
そのようなとき、旅行者の私はイライラしたり、不安になったりしているのに対して、周りにいる地元の人たちは、たいして気にしている様子もない……。
海外旅行にまだ行き慣れていなかったころ、そうした光景を見ると不思議な気分になったものです。
「どうして、みんな、慌てないのだろう」
彼らにとっては、あたかも
「列車は遅れるもの。当たり前の日常の出来事」という感じに見えました。
そうした経験を重ねると、ふと「そもそも日本の鉄道は、なぜあれほど時間に正確に運行できるのだろう」という問いが出てくることもあるでしょう。
そこからいろいろと思考をめぐらしていく。
あるいは、インドという国を自分の足で旅していると、すさまじい貧困の現実を次々と目の当たりにします。
裸足で駆け回り、物乞いをする子どもたちが街にあふれていたり、体の不自由なわが子を見世物にしてお金を稼ぐ親がいたり……。
そうした光景に遭遇することで、
「ああ、こういう世界もあるのだ」と
あらためて気づかされたりもします。
このようにして新しい世界の存在を知ることで、より物事を複眼的に、あるいは深く見ることができるようになっていきます。
私自身、できるだけたくさんの新しいものの見方を獲得するために、旅で大切にしている信条の1つが「なんでも見てやろう」の精神です。
これは、作家の小田実(まこと)さん(1932〜2007)が書かれた世界紀行の本のタイトルです。
1961年に出版され、この本に触発され、世界を目指した若い人がたくさんいました。
たとえば、「なんでも見てやろう」の精神でよくやるのが、宿泊施設のランクをいろいろ楽しむこと。
旅の最初に、高級ホテルに泊まってみる。その後は、駅前の1泊5000円程度の安宿に泊まったりしてみる。
高級ホテルから、若者御用達の安い宿まで……。こうした落差を経験すると、さまざまなことに気づきます。
サービスも違うし、客層も違う。
もちろん、施設もアメニティーも違う。
そうした、言ってみればこの世の天と地の両方を見ておくことで、いろいろなことに気づけるのです。
同じレベルのところばかりを利用していたら、こうした気づきはなかなか生まれません。
最初に高級ホテルに泊まる理由は、もう1つあります。
こうしたホテルは、石鹸やシャンプーなどのアメニティーが充実している。
それをもらっておくと、その後、安宿に泊まった際に、とても重宝するのです。
少しせこいと言えばせこいのですが……。
移動手段も「なんでも見てやろう」。
飛行機や鉄道を中心に、船、レンタカー、タクシー、バス、徒歩など、いろいろ組み合わせて、各地を回ります。
食べものも「なんでも見てやろう」です。
レストランで食べるときは、原則として前菜もメインもデザートもワインも
「地元のものをください」とオーダーします。
ヨーロッパを旅しているときに、仕上げのコーヒーまで「地元のもので」と言ってしまい、笑われたこともあります。
「ここはヨーロッパだ。コーヒーには、『地元のもの』はないよ」と。
20世紀のフランスを代表する作家、プルースト(1871〜1922)は、その半生をかけて書き上げたとてつもなく長い小説(でも、とても面白いのです)『失われた時を求めて』の中で、次の言葉を記しています。
「真の発見の旅とは、新しい風景を求めることでなく、新しいものの見方を得ることだ」
プルーストの言うように、旅は新しいものの見方を得るための、絶好の機会です。
旅を通して、さまざまな座標軸を得ることができる。そうやって自分自身が変化していくことが面白くて、過去の偉人たちはこぞって旅に出たのかもしれません。
旅を通して、自分の中に新しいものの見方が加わっていく。
それが楽しくて、
私はまた次の旅に出るのです。