今、みなさんは、どういう人たちとつき合っていますか?


人間は弱い動物ですから、人間関係においても、ついつい自分と気の合う人ばかりを求めてしまいます。

趣味や嗜好が一緒だったり、自分と価値観が似ていたり、こちらの意見に対してたいていは「YES」と言ってくれる人だったり、そのほうが楽しいので、これはごく当たり前の傾向です。


とくに年齢を経るにしたがって、誰とつき合うかの自由度は上がっていきます。

若いころは、いろいろと周囲の制約もあって、苦手な人ともつき合っていかなければなりません。


たとえば、上司がその最たるものでしょう。たいていの部下は上司をえらべません。 

ところが、自分が上司の立場になれば、部下を選択できる機会も増える。


仕事をする相手もなんだかんだと理由をつけて、嫌な人や苦手な人を避けようと思えば、避けられる。

しかし、これでは人間は成長できません。


なぜなら、気の合う人ばかりつき合っていては、今の自分をありのままに、歯に衣を着せずにはっきりと言ってくれる人がいなくなってしまうからです。

これでは自分を客観的に見ることができなくなってしまいます。


古代ギリシアの哲学者で、「万物の根源は水である」と唱えた人にタレス(紀元前640ごろ〜前546ごろ)がいます。

彼は、幾何学や天文学、航海術、土木術、政治学など、あらゆる学問に通じていて、古代ギリシアの七賢人の1人と言われています。


そのタレスには、

「『何が困難なことか?』と問われて、『自己自身を知ること』と答え、

『何が容易なことか?』と問われて、

『他人に忠告すること』と答えた。」

という有名なエピソードが残されています。


これには、みなさんも納得されるのではないでしょうか。


自分のことは、一見簡単に知ることができそうですが、じつはそうではない。


たとえば、自分の顔にしても、直接には見ることができず、「鏡」という道具を使ってはじめて、自分の顔を見ることができます。

しかし、それとても正確なものではありません。

鏡が見せてくれるのは、左右対象の自分ですから。


自分の声も、日ごろ、自分の耳で聞いているものと、他人に聞こえているものとは異なります。それは、カラオケで自分の歌声を録音してみるとよくわかります。「えっ、私はこんな声をしていたのか!」とビックリさせられます。


こんな些細なことでさえも、人間は意外と自分を知り得ていないのです。


一方の「人に忠告することが一番易しい」というのも、よくわかります。

実際私たちは、他人のこととなると、よく見えるものです。


人のことだと、「なんと賢明な判断だろう」とか、「なんてアホなことを……」といったことがリアルに理解できる。

そして、それはたいがい的確だったりします。どうしてそうした的確な判断が自分自身に対してはできないのだろうと歯がゆくなるくらいです。


さて、このタレスの教訓を、自分の人生に活かすならば、自分のリアルな姿を知るためには、他人からの的確な指摘が欠かせない、となるのではないでしょうか。


自分で自分を知ることは難しいけれど、他人にはこちらのことがよく見えているからです。


そして、その「他人」とは、自分の姿を客観的に見てくれていて、耳が痛いことも遠慮せずに率直にいってくれる人。

聞き心地のいい言葉を言ってくれる人ばかりでは、自分を知ることはできません。



中国・唐の時代、第2代皇帝・太宗(李世民:599649)に仕えた名臣に魏徴(ぎちょう)580643)という人がいます。


「人生意気に感ず」という有名な詩を残した人です。 


彼はもともと、太宗の父である唐の初代皇帝・高祖(李淵)の長男、皇太子(李建成)の教育係でした。

ところが、この皇太子はおっとりしていて、皇帝になるにはどうも頼りない人物。


一方、その弟である李世民は野望も能力も兄を凌ぐものがありました。

そのことを十分に承知していた魏徴は、毎日のように皇太子に対して、「今のうちに弟を殺しなさい。さもないとあなたが殺されます」と助言し続けます。

しかし、李建成は行動に移せない。


案の定、「玄武門の変」(626年)で弟・李世民によって殺害されてしまいます。


その後、李世民は太宗として即位。

そうなると、魏徴は罪人となります。

兄の李建成の側近であり、しかも、李世民を殺せと言い続けたのですから。


彼は、太宗の前に引き立てられます。

太宗は魏徴に対して問います。

「私の兄に、私を殺せと毎日言い続けたのは、お前か」

魏徴はこう答えました。


「あなたのお兄さんはアホな人でした。私はこうなることがわかっていたから、早くあなたを殺せと言い続けたのです。あなたのお兄さんがもっとものわかりがよく、私の助言を実行してくれていれば、私はこのように罪人にならず、首を切られることもありませんでした。楽しい人生を送れたはずです。あなたのお兄さんが愚かで、私の言うことを聞かなかったばかりに、私は今殺されようとしているのです」

ところが魏徴は殺されませんでした。


太宗は、「お前は今後、俺のそばを片時も離れず、俺の悪口を言い続けてくれ」と言って、彼を自分の参謀にするのです。

そして、魏徴が死んだとき、それを嘆いて太宗はこう言います。


「人を鏡としてはじめて、自分の行為が当を得ているかどうかがわかるものだが、私は鏡とする人物を失った。もう二度と自分の本当の姿を見ることはできないのだ」


皇帝ともなれば、周りはゴマすりばかり。そこであえて、自分の悪口を言ってくれる家臣を側に置く。

さすが大唐世界帝国と言われる一大国家の基礎を築き上げた人物は一味違います。


後に、太宗を尊敬していたクビライは、一生、魏徴(のような人物)を探し続けたと言われています。



前述したように、人間は年を重ねるにつれ、誰とつき合うかがかなり自由になります。そのとき、ただただ一緒にいて楽しい人とだけつき合うのか、それとも、そういう人だけではなく、あえて「こんちくしょう!」と思うような直言居士ともかかわっていくのか。



どちらを選ぶかは、その人その人の人生観だと思います。