私たちは普通、共通の宇宙に生まれて、共通の時間を生きていると思っています。
ところがそうではありません。
実はそれと全く反対に、一人一人の世界に生きていると仏教では教えられています。
それは、一人一人の過去の行いが異なり、その過去の業を蓄えている一人一人の阿頼耶識が生みだした
自分の世界に生きているからです。
阿頼耶識とは一体何なのでしょうか?
心はいくつある?
普通私たちは、心は幾つあるかというと、1つだと思っています。
ところが仏教では、私たちの心は8つあると教えられています。
それが「八識」です。
「識」は心ということで、八識は8つの心ということです。
◆仏教に説かれる8つの心「八識」
- 眼識(げんしき)
- 耳識(にしき)
- 鼻識(びしき)
- 舌識(ぜっしき)
- 身識(しんしき)
- 意識(いしき)
- 末那識(まなしき)
- 阿頼耶識(あらやしき)
それぞれどんな心なのでしょうか?
感覚をつかさどる5つの心
1眼識
「眼識」とは、色や形を見分ける心です。
これには個人差があって、近眼の人もいれば、遠くまで見える人もありますし、色弱や色盲になると、異なる色に見えているようです。
2耳識
「耳識」とは、音を聞き分ける心です。
これも、一般の人とオーケストラの指揮者とでは、違いがあります。
3鼻識
「鼻識」とは、匂いをかぎ分ける心です。
鼻が詰まっている人もいれば、鋭い人もいます。
4舌識
「舌識」とは、甘いとか、辛いとか、酸っぱいとか、味を見分ける心です。
これも、何を食べても美味しい人もいれば、グルメな人もいます。
5身識
「身識」とは、寒いとか暖かい、
痛いとか快いなどを感ずる心です。
これも、にぶくてあまり感じない人もいれば、ちょっとでも敏感に感じる人もいます。
これら5つの心を「前五識」といわれます。
前五識は、色々感じることができるのですが、記憶したり、考えたりすることはできません。
そこで、6番目の「意識」の登場です。
6.意識とは?
「意識」は、前五識を統制して、記憶したり、判断したり、考えたり、命令したりする心です。
ところが、私たちは、頭で分かっていても「分かっちゃいるけどやめられない」
ということがあります。
何かより強い力で動かされているのです。
心理学では、無意識とか、深層心理と言われたりしますが、それは、仏教ではやっぱり「意識」に含まれる心です。
それより深いところに、
7番目の末那識と
8番目の阿頼耶識があります。
7.末那識とは?
末那識は、いつも阿頼耶識にまとわりついて執着する心です。
意識は寝ている時や、卒倒した時には途切れます。
意識が途切れたら何も考えていない無心の状態のはずなのに、なぜ迷いが続くのかというと、末那識という途切れない心があって、意識が途切れている時も、末那識が悪を造り続けているからです。
本当は無我なのに、末那識はいつも阿頼耶識を固定普遍の我だと思ってしまうのです。
8.阿頼耶識とは?
「阿頼耶識」の「阿頼耶」とは、蔵のことです。
例えば、「ヒマラヤ」は、「ヒム」+「アラヤ」ですが、
「ヒム」は雪のことなので、ヒマラヤは雪の蔵ということです。
ですから、「阿頼耶識」とは、
「阿頼耶」+「識」で、
「識」は心のことですから、
阿頼耶識は「蔵の心」ということです。
「蔵識」ともいわれます。
蔵というのは、普段はとても静かです。
母屋には家族が集まって、一家団らん、楽しく過ごしているのですが、
普段から蔵に集まって活き活きと生活している家族はありません。
ところが蔵には、お米や財産など、大事なものを保存しておきます。
そして火事が起きたときでも、蔵は土でできていますので、燃えずに残ります。
火事がおさまった後に、
蔵からお金を出してきて、
再び母屋を建てることができるのです。
それと同じように、私たちの肉体は、
生まれたときにできて、死ねば滅びます。
ところが、阿頼耶識は、肉体が生まれるずっと前から、
肉体が滅びても、滅びることなく続いていきます。
果てしない遠い過去から、永遠の未来に向かって流れて行く、
私たちの永遠の生命を阿頼耶識というのです。
それはちょうど、とうとうと流れる大河のようなもので、
肉体は、川面にできたあぶくのようなものです。
あぶくができようが消えようが、
河の水は、増えもしなければ減りもしません。
私たちの本心は、阿頼耶識なのです。
では、私たちが普通は自分だと思っている意識と、阿頼耶識はどんな関係にあるのでしょうか?
阿頼耶識と意識の関係
阿頼耶識と意識の関係は、
主人と番頭のようなものです。
お店に行きますと、レジに座っていて
とても目立っているのは番頭です。
丁稚(でっち)などに指示をしてお店をとりしきっています。
何か問い合わせがあるときには、
丁稚に聞いても分からないので番頭さんに聞きます。
ところが、その番頭よりももっと奥に主人がいます。
お客さんの前に出てくることはないのですが、どんな商品を入荷していくらで売ろうとか、どこにお店を出そうとか、
経営戦略を立てて、意志決定をしています。
ちょうどそのように、私たちが
普段自覚できるのは意識なのですが、
それよりもはるかに深いところで、
はるかに強い力で私たちを動かしているのが、阿頼耶識です。
阿頼耶識におさまっているもの
阿頼耶識は、蔵のような心という意味ですが、
では一体何がおさまっているのかといいますと、「業力(ごうりき)」です。
業力とは、業とは行いのことですので、
行いの力ということです。
仏教では、私たちの行いを、3つの方面から見られます。
心で思ったことを「意業(いごう)」
口で言ったことを「口業(くごう)」
身体で行ったことを「身業(しんごう)」と言われます。
それらの心と口と身体の行いが、
目には見えませんが、決して消えることのない
不滅の業力となって、阿頼耶識におさまるのです。
そして、阿頼耶識は、業力をおさめて、
次々と変化しながら消えることなく流れていきます。
では、阿頼耶識に蓄えられた業力は、
どんな働きをするのでしょうか?
阿頼耶識が生み出す世界
業力には、大象100頭よりも強いといわれるものすごい力があって、
やがて自らの運命を生み出します。
もし善い行いをすれば、善業力となって、因果応報にしたがって善因善果、
幸せな運命を生み出し、
もし悪い行いをしたならば、悪業力となって、
因果応報にしたがって悪因悪果、
不幸や災難を生み出します。
だから因果応報なのです。
こうして私たちは普段、他の人と同じものを見ているようでいて、
同じように見えているとはまったく限りません。
阿頼耶識に蓄えられた自分の業力によって、
一人一人まったく違う世界を生み出して、
まったく違うものを見ているのです。
そして、肉体が滅びても、阿頼耶識は続いて行き、蓄えられていた業力によって、次の世界を生み出すのです。
そうやって私たちは、生まれ変わり死に変わり、永遠に苦しみ迷いの世界を輪廻転生していくのです。
