石垣島に残る伝説として有名なのは
「野底マーペー」である。
「石化伝説」という点から「野底マーペー」についてまとめた高木健は三人の話者から「野底マーペー」の話を採集しているが、その一つを紹介して、まずその内容を確認しておきたい。
むかし黒島にマーペーという女がいました。カニムイという男とマーペーは非常に愛しあっていました。
黒島は土地は狭く人口が多いので、石垣と西表は広く未開地が多いのでそこにわけようということになりました。
そこでマーペーとカニムイは、私達は愛しあっている仲なので一緒に住めるようにと黒島の組頭にお願いしました。
黒島の組頭は首里の役人に伺いをたてました。しかし、それはできないとマーペーは野底に連れて行かれました。
野底では田や畑を作って暮らしていたが、マーペーはカニムイの事が忘れられません。 未開の土地ですのでマーペーは健康を害しやせていきました。
お盆がやって来て盆踊りのとき、役人のすきをみてマーペーは野底岳に登って行ったそうです。
遠くカニムイの住む島の方を見ながら、そのまま帰って来なかったそうです。
村の人々はマーペーが帰って来ないので 心配して村中のあちこちをさがしたがみつからない。
すると 村の一人が実は野底岳の頂上の方で、女の泣き声を聞いたというので行ってみると、於茂登山にかくれて見ることのできない野底岳の頂上でひざまづいたまま石になっていたという。
だから野底岳は野底マーペーという。
今から250年前の話です。
まず、この「野底マーペー」伝説が18世紀前半に起こった黒島と石垣島に関わる史実を基にしているということを確認しておこう。『球陽』には次のように記されている。
八重山野底村を創建して黒島の民人を分移す。
八重山黒島は、本島を離るること海路五里の外に在り。田地甚だ狭く、人民増繁し、飲食堪へ難し。川平村属地に一 野有り。名づけて野底と叫ぶ。泉甘く土肥え、宜しく五穀を 種うべし。黒島の民人、往来には舟を用ひ、田を耕し地を鋤 き、以て労苦を為す。是れに由りて、在番官・酋長呈請し て、彼の島民人四百余名を分けて、此に移居せしむ。乃ち之 れを叫んで野底村と曰ふ。因りて与人一人・目指一人を設け て総理せしむ。
この石垣島の野底村建設に伴う黒島からの島民の移住は、第2尚氏王統13代目の尚敬の時代、1732年に行われた。
当時の三司官の一人が有名な蔡温である。
黒島から石垣島に移住 したのは黒島の宮里村の人々であったとされるが、それが「道切り」と呼ばれる強制移住政策として遂行されたことがカニムイとマーペーの悲劇を生んだのであった。
そして、この哀話を歌にしたのが黒島の民謡「つぃんだら 節」である。
この「つぃんだら節」について、喜舎場永珣は
「移民事業の裏面にある実に聞くに堪えない悲哀なロマンスを歌った悲曲」
であるとし、そのメロディは「聞く者をして胸をえぐられる思いをさせるもの」であると記している。
また、牧野清は「当時強制移住させられた人々が、不本意ながら泣く泣くと、役人の命令に服従せしめられて寄人となり、島を後に別れていったうらみつらみの気持ちが歌いこまれ、今に歌いつがれている」と記している。
喜舎場の言うように、「孤島苦をしたたかに嘗めつくしていた」黒島の人々にとって、島の窮状を打開するためとはいえ、「道切り」による強制移住は黒島の人々の心にまさに「孤島苦のつらい記憶」として残った。
「つぃんだら節」はそうした島民の気持ちを歌い上げたものであっ た。
「野底マーペー」伝説に語られたカニムイとマーペーはそうした島民の思いが作り上げたものであったであろう。
カニムイとマーペーは個人の男女ではなく、カニムイは黒島に残った人々の象徴として、マーペーは石垣島に渡った人々の象徴であったと読むこともできるかもしれない。
なお、高木健は石化したマーペーを「抵抗の表現」であるとし、「道切り政策や強制移住に対する、ささやかな抵抗をマーペー伝説を通して表現したかったのではなかろうか」として、「野底マーペー」伝説とは「八重山の当時の人々の願望や情の伝説である」と記している。

