竹富島
『球陽』は西塘について、次のように記している。
八重山武富島に西塘なる者有り。
其の人となりや、賦性俊秀にして器量非凡なり。
中山の大里等、其の才の衆に出づるを以て、遂に此の人を帯びて中山に回り到り、即ち西塘をして法司家に供奉せしむ。
引用文中に「大里等」とあるのは、アカハチの叛乱を鎮圧す るために琉球王府から総大将として派遣された大里親方のこと である。
すなわち、『球陽』によれば、西塘はアカハチの乱を きっかけに大里親方にその才を見出され首里に連れてこられた。
いわゆる「西塘の首里上り」であるが、『八重山島由来記』の「国仲御嶽」の由来を説明した箇所には、西塘がアカハチの乱の際に「召し取られ」とあり、その記述にしたがえば西塘は捕虜であったということになって議論が分かれる。
いずれにしても、西塘は、それ以後、25年間首里に滞在した後、竹富島に戻ったとされる。
その間に西塘が行った最大の業績が、 現在、世界遺産になっている首里城の園比屋武御嶽石門の建造 である。
西塘はこの園比屋武御嶽石門の完成を機に、帰郷を 願って許され、1524年、武富大首里大屋子に任ぜられて竹富島に帰郷した。なお、『球陽』によれば、西塘は園比屋武御 嶽石門を建てるにあたり、これで故郷の竹富島に帰ることができたならばこの御嶽の神を竹富島に供養すると祈ったと言われ、帰郷後、西塘は竹富島に国仲御嶽を建て、園比屋武御嶽の神を祭った。
アカハチの乱の後、八重山諸島は宮古の仲宗根豊見親の統治下に入ったかに見えたが、その後、八重山頭職であった次男の真列金豊見親がその暴政のために民衆によって王府に訴えられて更迭された上、宮古に戻された。
また、仲宗根亡き後、宮古頭職を継いだ長男の中屋金盛豊見親であった が、これもその悪政が王府の知るところとなって罰せられようとしたところをその前に病没した。
その後、王府は満挽与人を派遣して八重山統治にあたらせていたが、1524年、西塘は満挽与人に代わって武富大首里大屋子として八重山を統治することとなったのである。
西塘は、八重山統治の政庁として竹富島の浦皆治原に蔵元を建設したが、1542年、それを石垣島に移している。
『球陽』によれば、八重山諸島の首長たちは竹富島に渡って法令に 従っていたが、「武富島の地狭く人少く、往還未だ便ならざる」ために蔵元を石垣島に移したのであった。
その後、西塘は首里城の城壁工事に携わって屏風型の城壁を築き、伝説によれ ば1550年に亡くなった。
西塘については、園比屋武御嶽石門の建造や首里城の城壁工事にみられるように、卓抜した土木技術、石工技術を持ってい たことが高く評価されている。
それに加えて、鉄と鍛冶という 点から西塘を評価したのが上勢頭亨であった。
すなわち、上勢頭によれば、西塘は竹富島帰郷後、蔵元を建設すると
大祭が開かれている。
この西塘大祭は、1846年に始まったとされる。ともに、その敷地内に「火の神」を祭り、蔵元の向かいに鍛冶屋を建設した。上勢頭は、「優秀な石工技術者としての西塘 が、ことのほか鍛冶神に対して畏敬の念をもっていたとしても けだし当然であろう。八重山統治の責任者となるや王府には鉄の供給を要請し、農具の作製配布、農業の改善指導を行い増産 をはかった。また、日時計を設置し、時報太鼓を設けて島民に時刻を知らせるなど、その施策は斬新かつ適切であった」と指摘している。
アカハチが英雄か逆賊かで評価が分かれるのに反して、西塘については優れた人物として一定の評価が定まっており、今日でも島民によってその徳が慕われている。
竹富島の出身である狩俣恵一は「この西塘という人物は、竹富島の人々にとっては最大の英雄で、私たちは子供のころ『西塘様のように立派になりなさい』と、よく言われました」と回顧している。
竹富島には西塘を祭った西塘御嶽があるが、それは西塘の墓を御嶽として祭ったものである。
また、西塘は現在でも島民の信仰を集めており、毎年、旧暦六月の最初の「みづのえ」の日を祭日として定め、西塘に五穀豊穣の感謝を捧げるという西塘大祭が開かれている。この西塘大祭は、1846年に始まったとされる。
