フットライトとスポットライトに目を眩まされて、ステージの上にいる役者は観客の姿を見ることができません。


観客の方には、ただ巨大な黒い穴が見えるだけ。役者は、誰が自分を見つめているのか、その姿を見ることができないのです。


人間も、人生というステージに立って、その役を演じているのですが、やはり、この役者と同じように、自分が誰の前で役を演じているのか、その姿を見ることはできません。


人間は誰かの前で、その役を正しく演じなくてはならないのですが、自分が誰の前にいるのかを知ることができないのです。


そして、日常生活という光に目を眩まされているうちに、自分が見つめられているということ、暗闇の中に隠されてはいるけれども、客席には誰かがいて、絶えず自分を見つめているということを忘れ去ってしまうのです。



人間はステージの上にいる役者のようなもので、日々忙しく暮らしています。

多くの人は、スポットライトの光に目を眩まされている役者と同じように、日々の出来事に心を奪われてしまっている。


そしてそのために、自分が見つめられていることを忘れてしまっている。

暗闇の中に隠されていて、こちらからは見えないけれども、客席にはお客さんがいて、役者をじっと見ている。


神が絶えず人間に眼差しを注いでいるのは、これと似たところがあるのではないか。


この例えのなかで、観客は神様の例えとして用いられています。

役者が、舞台からは見えない観客の前で役を演じているように、人間は目に見えない神様の前で「人生」というステージの上に立たされているのです。



神が言ったとされる言葉

「おまえは私の背中だけを見ることができる。私の顔を見ることができない。」



「人生という舞台の上で役を演じつつ、しかも、目の前に広がっている日常の出来事によって目を眩まされながら、にもかかわらず、人間は心の知恵からその見えない、しかし偉大な証人の予言を予感しています。」



「神様は考えることができないもの、言葉で尽くせないもの。ただ信じ、愛することができるものだ。」



「神様というのは、実は、私たちが一人でいるときに語りかけている対話の相手である。」



人間が一見したところ空とか、無に思われるものに向かって『汝』と話しかけるとき、まさにそのときこそ、彼は永遠の汝に向かって話しかけているのです。

その汝が永遠であるというのは、人間がたとえまったく無意識にではあっても、常にその汝に話しかけており、また常に汝から話しかけられているからである。



人間は孤独でなければなりません。

孤独であってはじめて、一人ではないこと、ずっと一人ではなかったことに気づくことができるのです。


人間は孤独でなければなりません。

孤独になってはじめて、自分との対話が相手との対話であることに、ずっとそうであったことに気づくことができるのです。