実るほど頭を垂れる稲穂かな
中身の詰まってない稲はピンとたち、中身が熟した稲ほど実の重みで頭が下がる様子から、知識や徳を積んだ人ほど謙虚な人間になることを例えたことわざです。
豊かに実った稲はその重みで頭が下がる、その様子から何らかを学び修めた人は謙虚さを兼ね備えるようになるという意味です。
とても有名な詩ですが、誰が読んだ詩かはわかっていないようです。
このことわざの一番大事なところは、頭が下「が」るとか、垂「れる」というところがとても重要な表現なんです。
「頭を下げる」と「頭が下がる」は動作としては同じですけど、実はこの2つには大きな違いがあるんです。
頭を下げる
人はお金のためなら頭を下げることができます。
仕事を紹介してくれたり、お得意さんであったり、ここで「頭を下げ」ておけば、自分にとって利益があるぞ!という時はペコペコ頭を下げることができるんです。
気持ちなんて全然こもってなくていいんです。
自分の尺度や都合であっちにペコリ、こっちにペコリ。
意識的にペコリ、狙ってペコリ。
頭を「下げる」のはポーズでできることなのです。
頭が下がる
しかし、「頭が下がる」というのはちょっと違うんです。
これは損得や自分の都合を超えた世界なんです。
相手がどうとか、利益や損得の問題じゃなく、私がどのような存在なのか?という中身が問われる問題なんです。
頭が下がるというのは自然に起こってくることで、狙ってポーズでできることではありません。
どういうことかというと、私の中に本当に中味が詰まらないと「頭は下がらない」んです。
中味というのは感謝と尊敬の心、そして「おそれいる」という心。
自然に「頭が下がる」人というのはなかなかいないんです。
実るほどこうべを垂れる稲穂かな
という言葉からは、周りの様々な働きによって自分の実りは支えられていることを知ることができます。
稲は稲自身の力だけで成長するのではない
稲が生長するには稲自体のもつ力はもちろん大切ですが、それだけでは成長しません。
土がないといけません。
水がないといけません。
日光がないといけません。
いろいろな要件が揃って、時間とともに稲穂の中身が詰まっていく。
直接的にも間接的にも多くのはたらきがあって中味が詰まっていくわけです。
その周りの多くのはたらきによって、自分自身が支えられていることに気づけないと頭は下がらないのです。
これは人間のあり方も一緒なんです。
自分が成長するまでに様々な支えとご縁があってここまで育ってきたのです。
もちろん自分の努力もあるでしょう。
しかしそれ以上に、自分の目には見えないたくさんの「はたらき」に支えられて育ってきたはずです。
成長をうながす「はたらき」によって自らが成り立っているという事実に気づけるかどうか。
この「気づき」がないと、いくら知識を得ようが仕事をこなそうが、「ありがたい」という心は生まれず頭は下がらないのです。
「おかげさま」という考え方
古くから日本は直接的には見えない「はたらき」すなはち、「影(かげ)」の力に感謝する生き方をしてきました。
それが言葉にも表れているんです。
「かげ」に尊敬の「御」をつけて「おかげ」と言いました。
さらに丁寧にして「様」もつけて「おかげさま」となりました。
私がここまで育ってきたのは「おかげさま」である、こういう精神を大事にしてきたのです。
現代は個人の主義主張を強く言う時代になりましたが、自己主張がどんなに強くなろうとも多くのものに支えられて生きているという事実自体に変わりはありません。
自分が支えられていることに気づかず、自己顕示欲とメンツでぱんぱんの稲穂は、肝心な栄養が入っていないから熟していかないのです。
いつまでもこうべを垂れず、青くぴんと突っぱったまんま。
頭の下がった稲穂の姿に「おかげさま」の心を学んで、頭の下がる生き方をしたいものです。

