市原市歴史博物館 新しく指定された鶴峯八幡宮の阿弥陀如来懸仏(県内最古)

                              2024年5月

 

 市原市中高根の鶴峯八幡宮で、近年の台風により被害を受けた旧本殿の解体中に阿弥陀如来懸仏が発見され、銘文から製作者名と製作年月日が判明し、県内最古の懸仏であることがわかりました。(これまで県内最古の懸仏は、香取市観福寺の弘安5年(1282年)銘の2点)

 これらのことから、市原市の中世文化を考えるうえで極めて重要な意義を持つことにより、令和6年3月28日に市原市指定文化財とされました。本年5月末まで市原市博で展示されると聞き、見学してきました。

 

 この懸仏は全体がおよそ45cmと大型で、仏像部分は見たところ20cmほどの大きさです。材質は銅製で、仏像部分を取り外しできるようになっているようです。仏像は仰向けに寝かされる状態で展示されていましたので、内部は空洞で、銅を仏像の形の型に流し入れて鋳造されていることがわかりました。仏像を取り付ける鏡板は、火災によると思われる焼損によって一部欠損していますが、貴重な銘文が残っていたことはまことに幸いでした。

 その銘文によると、この懸仏は建治3年(1277年)に佛師藤原末行が製作したことがわかります。鶴峯八幡宮の社伝に、当社は宇佐八幡宮から分霊を受けて同年に創建されたと伝わっているのと一致しています。また、当時の上総国には藤原姓の鋳物師が存在していたので、「佛師藤原末行」はその一人であったと考えられています。

              

                            ©市原歴史博物館

 仏像部分は単独像としても優れた出来ばえであると思われ、懸仏総体として綿密に造られていると思いました。

 仏像(阿弥陀如来坐像)の頭部は、体部に比して大きめに作られていますが、高いところに懸けて下から見上げるためにそのようなプロポーションとなっているのだと思います。螺髪はひとつひとつ丹念に鋳出されています。衣文もまた、やや定型的なデザインでありながらも省略されることなく丹念に鋳出されています。仏像部分を鏡板に取り付ける仕様であるので立体性が際立ち、全体として大型のつくりであることからかなり見栄えのする優品であるように見受けられました。

 阿弥陀如来像の相貌は、薄く開いた切れ長の両眼、引き締まった口元、整った鼻など、現代のハンサムな男性を彷彿とさせる端正な容貌を呈し、鎌倉時代の武士らしい引き締まった写実的な表情を見せています。

 

 展示説明によりますと、今回発見された懸仏の銘文には施主についての記述が残されていたということです。それは、この懸仏は地頭・大江氏の鶴峯八幡宮への厚い信仰により作られたというもので、このことにより、当地・与宇呂保の当時の地頭は大江氏であったことが確認されたということです。大江氏とは、鎌倉幕府創設の重鎮のひとりで政所別当であった大江広元の子孫です。

 従来当地は房総の大族・上総氏が支配していましたが、上総広常の孫にあたる女性と大江広元の長男・親広が婚姻関係を結んだことにより、上総氏の与宇呂保の領地を大江氏が相続する道筋ができ、大江氏が当地を支配する地頭となったものと思われます。同説明によれば、今般の懸仏の銘文の発見により、大江氏が当時地頭であったことが確認されたということです。

 なお、この時の国司は金沢(北条)氏でした。さらに、この夫婦の子・大江広時と金沢氏の女性の婚姻によって金沢氏も相続の持ち分を得ていくということだそうです。金沢氏の与宇呂保の領地は、「称名寺寺用配分状」によると「上総女房御跡」と見え、彼女の死亡後、金沢氏から称名寺に伝領された可能性があると考えられており、この「上総女房」とは従来、金沢実泰の妻女と考えられていたようですが、実は大江広時と婚姻を結んだ金沢実泰のむすめだったように思われます。

 自分は、与宇呂保には上総氏の所領が多くあったが、上総広常の粛清後に幕府に没収され、和田氏、上総千葉氏などに与えられ、その後両氏の滅亡後あたりから権力にもの言わせて直に(金沢)北条氏の所領となっていったと想像しておりました。

 上総氏の当地でのプレゼンスについては想像していたとおりでしたが、今回の博物館の説明によって、上総氏滅亡後の土地領有の移転は当時の慣習法に則して相続による分配により行われ、権力を乱用した強権によるものではないことがわかりました。ただ大江氏の当地への介在はまったく知りませんでした。

 NHK大河ドラマでは、大江広元は上総広常粛清の黒幕でしたが、それと反対に上総氏と姻戚関係を結んだ思惑は何だったのでしょうか。広常は寿永2年(1183年)に粛清されますが、そもそも大江広元が都から鎌倉へ来て公文所別当となり本格的に御所で官僚として働き始めるのはその頃であり、源頼朝の介在があったとしても、広常と広元が合意して姻戚関係を結ぶほどの関係を築く時間があったか疑問です。ゆえに広常粛清後に大江氏と広常の孫むすめが婚姻を結んだのではないかと思われます。

 広常粛清後も、市原市の矢田・池和田地区では夫であった小笠原長清の後見のもとで広常のむすめに対して所領の安堵が認められており、与宇呂保でも同様に大江氏が姻族となることで広常遺領の孫むすめへの相続が認められたのではないでしょうか。この婚姻は、鎌倉幕府草創期の微妙な御家人統制策の一環だったのかもしれません。結果として、上総氏の所領の一部は幕府の有力者・大江氏の支配となりました。

 広常粛清後、与宇呂保が他の遺領のように和田氏や上総千葉氏に与えられなかったのは、上総氏同様、鎌倉幕府が当地を地政学的に重視していたためではないでしょうか。和田義盛は上総国の支配を狙って上総国司の就任を幕府高官・大江広元に申し入れておりましたが認められず、(このためだけではないにせよ)最終的に和田氏は滅亡に追い込まれてしまいます。与宇呂保だけをもって上総国の生命線とは言えませんが、上総国府の直近の重要地であることは指摘できると思います。

 なお、上総広常の孫むすめと結婚した大江広元の長男・親広は承久の乱で上皇側に味方して失脚し1242年に没しています。その子・広時は父との連座を免れ、金沢実泰のむすめを妻としており、おそらく母から与宇呂保の領地を相続し、当保の地頭であったと思われますが1262年に没しています。その家督を継いだ子の政広が、今般の懸仏を奉納した「地頭大江朝臣」であると思われますが、奉納後わずか数か月で没しています。