市原歴史博物館 特別展 「いちはらのお薬師様」VOL.2

 

 2022年11月に新規オープンした市原歴史博物館の初めての企画展「いちはらのお薬師様」の見学記の第二弾です。

 

 金乗院薬師如来坐像及び両脇侍立像(千葉県指定文化財)について前回見ましたが、少し追記します。 

 この三尊像の造立の時期についてですが、千葉県のH.Pでは「平安時代後期」としていますが、この時期は世相が激しく移り変わっていく時期なのでもう少し時期を絞って示していただきたいところです。11世紀に遡るのか12世紀の末期まで下るのか。

 この三尊像の隣に展示されている薬王寺の薬師如来坐像は同じく「平安時代後期」の製作と説明されていますが、古風な特徴から11世紀に遡るとされています。薬王寺像と比べると洗練度が高いと見えることから、金乗院三尊像は12世紀前半から後半にかけての製作ではないかと自分は思います。それを上総氏の代でいえば、上総広常の祖父か父の時代ではないかと推定します。広常の代まで下がらないと思うのは、広常が願主となった可能性が論じられている新時代的な作風の品川・専修寺の阿弥陀如来像(もとは市原市池和田の正福寺の寺仏だった)ほど洗練度が及ばないと見られるからです。

                  

                      

 品川・専修寺の阿弥陀如来像(品川区H.P)

 しかし金乗院薬師三尊像は千葉県を代表する優れた出来栄えの像のひとつであることから、その所在する国府に近いこの地域を上総権介の権力を継承して支配していたと考えられる上総氏と関係のある人物が造立に関わったと考えることができるのではないでしょうか。

 更に像容について補足しますと、中尊はたくましい脚部が衣越しに窺えるなど、リアリティを持たせる表現が試みられており、鎌倉期へ向かう時代性が感じられます。また、頭部を前方に付き出すやや猫背の坐り姿勢は、安定感と柔らかな動きを感じさせます。

 両脇侍は双方の作風は同じですが、右脇侍は上体を少し捻りアクティブさを感じさせるダイナミズムを示し、薄目を開きこちらを見て拝観者とコミュニケーションを取ろうとするかのように感じられます。左脇侍はそれと異なりほぼ直立し、眼を閉じて瞑想しているように見えます。両脇侍の造形をこのように性質に違いをもたせて見せるところに、どこか製作者のウィットが感じられ、仏像を見る楽しみのひとつとなっています。

 

 次は、先程触れた薬王寺の薬師如来坐像(市原市指定文化財)です。

市原市HPから

像高71cm。寄木造・彫眼で現在は素地を表しています。全体的に浅めの彫りをはじめ、まるみのある肉どりに、平安時代後期に造られた仏像の技法や特徴がよく表れています。優しい面持ちと姿形を整えた本像は、永い間にわたって秘仏とされていましたが、現在は薬王寺の境内にある収蔵庫に安置され、年に一度、春先にご開帳されています。

       

                    

                  ©仏像リンク

 全体の型取りを見ると、下半身部のスクエアな造型が目立ち、上体も曲線的ではなくやや平板でこわばった感じがします。リアルな肉体性は感じられず、ローカルで素朴な像であると見受けられました。木喰仏や円空仏を連想させる純朴な表情がこの仏像の第一の魅力だと思います。

 造像当時から村落において庶民的な信仰を受けてきたイメージがこの像からは感じられます。この地域の在地領主を中心とした農村コミュニティのなかで、地域の守護仏として地域の統合を担ってきたのではないでしょうか。

 この像は市原市に伝来するものの中でも古いものの一つと見られ、11世紀にまでさかのぼるとされています。その時代は、平忠常の乱(1028年)によって房総全域が荒廃を極める中でその復興が図られていた時期に近く、人々はいまだに戦乱の後遺症に苦しんでいた時期ではないかと思われます。特に10世紀は旱魃期と洪水期が短期間に繰り返される気候変動の激しい時期であったといわれ、その後も飢饉や疫病蔓延が繰り返されていたことが想像されます。そのような苦境の中で生き、復興に励んだ当時の人々の団結の象徴であり、救いを求める祈りが込められているお薬師像ではないでしょうか。

 ここから500mほど離れた場所に、平安末期から鎌倉中期にかけて存続したと考えられる大規模建物群を擁する寺院跡らしき遺跡が発掘されたそうです。当地付近は宗教的に特別な場所だったようです。本像はその時期より古い造立のようですが、その寺院に祀られたこともあったかもしれません。その寺院に関わりがあったと想像される上総氏または上総千葉氏といった旧来の豪族領主層が滅亡・衰退し、新しく入部した足利氏や有力寺院が領主となって当地域の支配体制を再編していく時代の流れをこのお薬師様は経験したことでしょう。

 

法行寺薬師如来坐像(市原市指定文化財)

市原市HPから

像高90.1cm。ヒノキ材の一木割矧造で彫眼です。豊かな肉付き、浅く彫出した衣紋の細やかさなどに平安時代後期の作風がみられ、当地における定朝様式の本格作といえます。元来は阿弥陀如来であったとも推定されますが、今日薬師如来として信仰されていることから、両腕と薬壺を復元したものです。

                         

 ©2021 The Sumitomo Foundation

 平たい顔面に穏やかで若々しい表情を表わし瞑想する。頭部は肉髻が高く、螺髪が丹念に刻まれている。薬師像に顕著な肉体性よりも、瞑想する精神性が像全体で表されています。本像は薬師像と伝わりますが、本来は阿弥陀如来像であると見られるようです。

 身体は瞑想のなかに溶け入りそうな質感を湛えている。左腕の衣文はやわらかく腕にまとわりつく。とはいえ、身体に貧弱さは見られずボリューム感に溢れています。平安期らしい優雅な流水紋状の衣文に包まれている丸みを帯びた脚部のボリューム感が、上体部に波及して広がっているように感じられます。

 平安後期の定朝様式の典型を示す造型だと思われますが、上総国府からそう遠くはないにしても、街道沿いの丘陵地帯にこの時代、これほど深い精神性を表している仏像が伝来することは驚くべきことだと思います。どのような願主がどのような願いを込めてこの像を造立したのでしょうか。そしてそれに応えてこれほど優れた仏像を製作した仏師はどのような人物だったのでしょうか。

 この地域は下総との境界に近い市原市の北東部にあたり、東上総地域から現在の千葉市浜野付近に通じる茂原街道のルートに沿って古代道が域内を通っていたようです。また安房から内房地域を通り上総国府に至り、更に下総国府に向かう古代道と上記の古代道(≒茂原街道)とが最接近する地点です。(当地区の中心地として街道交通によって近世に栄えた潤井戸という宿場が近在します。)それゆえ、本像が造立されたと考えられる12世紀には、この地域も上総氏にとって政治経済的に重要な地点だったのではないでしょうか。また、上総氏の関与に加え、東海道へとつながる道路の人や物資の往来は、この地域に高度な精神文化を伝え、その痕跡が本像として伝わっているのではないでしょうか。

 

光善寺薬師三尊像

                

   市原市H.Pより 右が光善寺薬師如来坐像(中尊)

 一見して、これまで見てきた「薬師仏」とは異なる独特のエキゾチックな雰囲気を漂わせるお像です。展示説明によりますと、本三尊像の造形上の特徴は、南北朝時代から室町時代にかけて院派仏師が主導して流行した様式とよく似ており、製作年代は14世紀末から15世紀前半にかけてとみられるそうです。

 自分は、院派とは南北朝時代前後に現れた特異な造型を特徴とする新たな仏師の流派だと思っていましたが、実は定朝を直接の祖として正統的に引き継いだ仏師の一派で、平安時代には皇家や貴族の仏像を造ることが多く、むしろ保守的な貴族好みの作風であり、最も勢力のある一派であったそうです。鎌倉時代には鎌倉幕府と関係を深めた慶派に押されたが、鎌倉時代後半から南北朝時代にかけては関東地方の禅宗・律宗関係寺院に進出し、足利将軍家仏師になって復活し、近世に至るまで存続したそうです。

 光善寺の薬師三尊像は南北朝時代から室町時代初期に製作されたと考えられていますが、光善寺の隣接地区には中世の上総国府があり、同地区には足利氏の守護所跡と見られる一画があるなど、この時期の光善寺付近一帯は鎌倉時代中期から上総守護職を歴任した足利氏の牙城と言ってよいと思われ、本三尊像はまさに足利氏ゆかりのお薬師様と言ってよいのではないでしょうか。南北朝期からは主に足利氏に近い有力者が守護職を受け継いでおり、実際は鎌倉中期以来足利氏の家来となっていた国人領主層が本三尊像の願主であったと想像されます。

 本三尊像は、本展の鎌倉時代までの仏像とだいぶ意匠が異なっています。第一印象として、表現に独特の粘っこさがあって、洗練と反対方向へ向かう泥臭さを敢えて強調しているような造型意思が感じられます。精神的な超越性よりも現実主義的なふてぶてしい押しの強さを強調するかのような造型は、当時の領主層の趣好を反映し、戦乱の南北朝時代にふさわしいといえるかもしれません。

 全身のスタイルは、三尊とも頭部が大きくずんぐりしており、両脇侍は膝から下の脚部が異常に短く独特のデフォルメがなされています。両脇侍については、伝統的な左右同形性が破られ、対面者に挑発的にアプローチを仕掛けてくるダイナミズムが感じられます。

 中尊の相貌は穏やかに見えて、対面する者に緊張感を与える何か油断ならぬものがあり、両脇侍は、結んでいる与願印に反して、対面する者に露骨な警戒感を示して厳めしく見据えてくるように感じます。

 衣装については、強いカーブを描く衣文が幾重も連なり、嫋々たる質感が強調されています。また、中尊の上衣の意匠は非伝統的な羽織状のものであり、特異な様式的特徴が際立っています。

 この三尊像は、伝統的な仏像の美の基準を覆すような新時代の様式性を強烈にアピールしているように感じられます。南北朝期以降の院派様式のそのような訴求性と足利将軍家仏師としての地位がこの様式に一種の権威性を与え、近世まで存続した原因となったと思われます。

 ただ、その権威性は、足利将軍の威光によるだけではなく、各地域の在地領主や下々の者たちの共感を得たことに多く由来するのではないでしょうか。鎌倉時代後期からの楠木正成など「悪党」の活動が活発化した世相がこの三尊像の特異な姿に反映しているように感じられます。南北朝期の戦乱が収まると「悪党」的な活動も沈静化しますが、旧来の制度や権威に対する人々の見方や価値観は一変してしまって元には戻らなかったのではないでしょうか。その意味で、市原においていち早く南北朝末期から室町時代前期にこの院派様式の三尊像が造られたとみられることは、地域の世相や民心の変化を窺わせる資料として価値が高いと評価できると思われます。

 

 ちなみに光善寺の境内は、出土した瓦から国分寺以前の7世紀末まで遡る古代寺院の址地と推定されており、市原郡の郡名寺院に推定する説が有力であるようです。この古代寺院の創建には、当地域を支配していた有力豪族が関わっていたと考えられ、彼らの私的な信仰のための施設であったと思われます。このように仏教は東国にも広まっていたようですが、光善寺廃寺に先立つ7世紀後半には印旛郡の龍角寺の地に銅造薬師如来像が造立され国指定重要文化財として現在まで伝わっています。(当初の部分は頭部のみ。)その薬師如来像が今回の特別展に出品されました。

 

龍角寺銅造薬師如来坐像(国指定重要文化財)

千葉県HPから

龍角寺は、7世紀の後半に創建された下総国内で最古の寺院である。寺伝によれば、和銅2年(709)に竜が現れて創建したと伝えられ、また、天平3年(731)に大干ばつとなり、人々が雨乞いをしたところ、竜が現れて雨を降らせ、7日後、ふたたび竜が現れ頭、胴、尾の3つに分かれて落ちてきたという。頭が落ちたところが龍角寺。胴は、ここから西へ8kmほどのところに落ち、そこには龍腹寺(印西市龍腹寺)が建てられ、尾はどういうわけか、はるか東南の匝瑳市に落ち、龍尾寺(匝瑳市大寺)が建てられたという龍神伝説が残っている。

 この像は、関東地方にある白鳳仏として、東京都調布市深大寺の銅造釈迦如来倚像(重要文化財)とともに有名である。像高は130cm、顔の長さは19.7cm、顔の幅は17cmで、現在は、全身が揃うが、首から上が白鳳期の作である。龍角寺は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に火災にあったため、この像も首から下が失われた。首から下は正徳年間(1711~1716)に改めて鋳造されたものである。

 火災に遭ったために肌がやや荒れているものの、豊満な耳、切れ長の目、眉から鼻筋にかけての深い線、さらに微笑を帯びた口もとは、白鳳仏のもつ古式の笑みを表現している。

 なお、正徳年間に鋳造し直された部分も当時の一級の鋳造技術によって作られており、顔の表現とよく調和している。

                                                       

                          

 本像は龍角寺で拝観できる機会があると聞いていましたので、いつか拝観したいと思っていたところ、思いがけずも今回のお薬師様展で間近に対面できる機会を得ることができました。

 頭髪部の簡略的な意匠、相貌の簡潔なラインによる構成など、頭部の造形は意識的にシンプルさを追求しているように見えます。(この点については、深大寺の白鳳仏のほうが徹底している。)

 極端に切れ長の眼、頬は少女のようにふくよかに盛り上がる。図形的で抽象的な眼、鼻、口の造形がふくよかな曲線を描く素地に刻まれたとき、太陽のような笑みが対面者のうえに降り注ぐ不思議さ。その笑みは永遠の母性の象徴のようにも、生き生きとした幸福の表象のようにも見えます。それは古代の母系社会のおおらかさを反映しているのかもしれません。

 後世の仏像はほぼ無表情で内向的ですが、このお像は人々に春陽のような恵みを降り注いでくるようです。お顔を見つめていると、リアルな人物を表現しているようにもみえてくるのが不思議でもあります。相貌の表現が抽象芸術に近い深大寺の白鳳仏と共通点が多い一方、同じく鋳造でありながら龍角寺像のほうが人間的な暖かみを感じさせるのは、衆生を癒す薬師仏であるためなのでしょうか。

 本像は頭部の他は焼失しましたが、失われた体部はどのようなものだったのでしょうか。現状とは異なり、深大寺像のようなおおらかな姿勢だったのでしょうか。

                   

                                栄町H.Pより