太宰治賞、二次選考通過はならず。
二次は25本が選ばれていました。

越える山はまだ高くそびえ、
この先もまだ歩き続けなくてはならないということです。

しかし、初応募にして一次選考通過できただけでも、
この先書き続けるための励みとなりました。
1548本の応募から153本に絞られたというのは、
読むほうも大変です。しかしその本数の中から1割に食いこめたのは
何か引っかかるものがあったからだと思っています。

その引っ掛かりは、つまり私の長所でもあり短所でもあります。
それでもその引っ掛かりに共感してもらえ、
おもしろい、これは刺さる…と
少しでも感じてもらえるのは作者としてはうれしく、
この先もそういう引っ掛かりを拾って書こうと決めました。

テーマは、人の居場所について。
コロナ禍の現在進行形で、物語は展開しています。
30年以上引きこもりである親戚の失踪事件から始まり、
母の悔恨。そこに潜む8050問題。
一方で私の分身である語り手が経てきた
離婚、ひとり親の子育て、起業、老人介護、更年期。
そしてパートナーを亡くした遺族、
コロナ禍の失職による鬱。

それぞれが自分の持ち場で
苦しみ、もがきながら生きる。
何が正解で何が間違いかではなく、
今を精一杯生きるしかない。
そのうち事件は思わぬ展開を迎えることに。

誰もが孤独になりうる時代。
居場所は、場やモノがあればいいわけでなく
そこに介在する人が、人を支えるほかないのでは?という
想いを込めています。しかし、人は感情の動物でもあり、
思うようにいかず。沈黙していることで利用されてしまうこともある。
物語の結末は、あえて完結せず・・・して希望を含んでいますが
もしかすると、この続きを書くことでまた違う視点が見えてくるかもしれない。

なんとなく自分でそんなふうに思っています。

スケジュール帳に日々の予定がギッシリであり続けた
2020年8月までを終えてのコロナ禍
小説を書き始めたのは
昨秋10月末から12月の頭までの約1か月ちょい。
次は腰を据えて書き上げて、
また新たなる挑戦を。


コピーライターという肩書きから
小説家を語れるようになるのは
まだもうちょい先ですが、がんばります。


 

 

もうずいぶん前、といっても6年くらい前のことだと思う。

偶然に行ったフレンチレストランが、転居して、たまプラーザ駅近辺に新装オープンしたとお知らせがきていた。

新装の店は、土地柄かさらにオシャレな内装となり、金額以上のお料理とワインを楽しんだと記憶している。

で、コロナ禍となり約一年。
残念ながら、なくなっていました。反して、1日に六万も売り上げていない店でも、休業手当てとして飲食店はもらえている店もある。

おいしかったのにな。残念だな。
こうして、良い店はどんどん消えてゆく。

生き残るのが、ダメな店とは言わないし、そうでないけれど。飲食店だけでなく、生き延びるのは大変な時代です。

何とかならんかな。

こどもの国へ行くとわかっていたのなら、

もっと装備も万端にしたのだけれど。

昨日ニトリに雑貨を買いに行って、

その足で「こどもの国へ行こう!」とツレが言い出し、

え?なら日焼け止めも塗りたい。帽子も被ってきたい。

服も着替えたい。などと言う私のワガママは却下され、

20分くらいで、こどもの国へ到着。

 


ここに来園するのは何年ぶりになるかなぁ?

スケート場もあったけれど、さすがに今の時期はやっておりませんでした。

いつも車で通り過ぎるだけのスポットとなりましたが、

割と近所にある遊び場で、自然豊かで動物もいて和む。

ピクニックするのもここは最適。しかし、当時は車がなかったので

電車とバスを乗り継いでくるよりも、森の中を探検するほうが断然多かった。

 

息子が小さな頃は保育園のお友達と皆で遊びに来た。

コロナ禍で経営難となりクラウドファンディングしていると聞いていたので、

そんなに混雑していないかな~と思ったら大間違い。

春の陽気に誘われて、チビ連れの若い家族がわんさかで。

あっちこっちカートでゴロゴロ荷物や幼児さんも載せて。

キャンプ場で見かけるカラフルな小型ビニールテントが点在。

こんな便利な物は20年前なかったのです。

時代と共にメキメキ進化して、快適になってます。

 

行こうと言ったツレは、ゲート入るところで

「大人だけじゃ入れないんじゃないの?」と言い出したので、

「そんなわけないじゃん。みんな昔はこどもだったんだから。誰でも入っていいんだよ」と

グイグイ進み。しかし、私も、大人だけでこどもの国は初めて入った。

思えば、腰のあたりでちょろちょろし過ぎる息子が

怪我をしないように見守るだけでグッタリしていた。

 


お花がたくさん咲いていて、牛やポニー、羊、白鳥もウロウロ。

陽射しが柔らかく、とても気持ちよかった。日焼けはマスクで

かろうじて日除けになっていたけれど、暑かった。。。

のんびりソフトクリーム食べながら歩いて春を堪能。

 

緊急事態宣言もここまで延ばされれば、

家の中に籠っているのは無理というものです。

もちろん感染症対策はしていましたが。予想以上の混雑で

こどもの遊具は完全に密っていた。

 

車なら、家からひょひょいと行ける場所。

存続応援するためにも、また行こう。

今度はお弁当持って、大人だけで!

 


 

 

 

 

 

 


今年の3.11は「あれから10年」という言葉で括られ、何やら「節目」という設定を目にすることが多かった。

多くの被災者にとって、2011年の3.11から2021年の3.11は日々の連続であり、苦しさや悲しみに節目などなく

時間の積み重ねでしかない。

そういう私も、2011年の11月にあっけなく母を亡くして、助けられなかった悔しさと、

自分の無力さに打ちのめられながら、なんとか10年を過ごしてきた。

 

そして、10年前のこの時期。猛烈に髪が抜け落ちていた。

朝起きると恐ろしく枕にウイッグが転がっているのか?と思うほど、

髪がごっそりと抜ける、というよりも、髪がごっそりと落ちた。

10円ハゲよりも大き目な500円ハゲが、いくつも頭に点在してしまったような。

全頭脱毛症。

 

2011年3月31日。震災のあった月の一番最後の日。

私は思い切って、いつものヘアサロンで施術してもらっているスタイリストに

ハゲに残った髪をバリカンで剃ってもらい、坊主頭になった。

 

脱毛の原因は今もわからない。

自律神経失調症という病名が苦し紛れにつけられたけれど、医者によれば

何らかの理由で免疫力が落ちて、自分自身を間違えて攻撃してしまう力が働いている・・・ということであった。

頭に何本もぶっとい注射を打たれ、その痛みのすごさは、ハゲにならないとわからないと思う。

 

何本注射しても、抜ける時は抜ける…と言われた通り、通院している間は止まらなかった脱毛。

季節が暖かく変わってからは、何事もなかったかようのように新しい髪が生えてきたが、

入れ替わるように元気だった母の具合が悪くなり、あっという間に命を持っていかれた。

一方で、私のハゲは1年後には以前よりも質の良い髪が生えそろい、健康を取り戻した。

 

母が、邪気の身代わりになってくれたとしか思えない。

 

311後しばらくの間、揺れる前は後頭部がじんわり痛む前兆があり、

ナマズのように地震を予知していた。

 

私の場合、「ハゲる」という目に見える症状に表れた分わかりやすかったけれど、

内臓や心など、見えない部分を痛めた人がどれだけ多かったことだろう。

 

震災と何か関係があるのか証明はできない。

でも、今振り返っても、あの脱毛現象は、大惨事をキャッチしていたと思う。

しかし何もできずにいた自分。

健康を取り戻す転換期となったのは、不幸中の幸いだと感じている。

その恩返しを、これからしなくてはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

昨夏から走り始め、7ヶ月。
アスリートみたいな真剣さはなく、空の綺麗な色を見られる時間帯に軽く、小さなグラウンドを5周するだけ。

雨の日はできないし、走れない日もある。

何も考えずに自分の体の声だけに耳を澄ませて走る。

余計な肉が削げてきて、体も心も軽くなってうれしい。

早くマスクなしの暮らしが戻るといいなぁ。