西行は陸奥平泉の旅から帰った1187年、『御裳濯河歌合』の判を俊成に依頼した。その中に、有名な死期予言の歌が入っている。

   願わくは花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月のころ

 そして、実際、西行は、この歌の通りに3年後の1190年2月16日に、河内国弘川寺の花の下で入寂している。歌には「望月のころ」とあるので、14日でも、17日でもよかったのだろうが、この年の2月の望月は15日ではなく、16日であったというから、望月の当日に入滅したことになる。奇跡といえるような往生である。

   百人一首の西行法師像

「嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」

 

                    弘川寺にある西行法師の墓 

 

 現在でも西行の人気は衰えていないが、パフォーマンスにも等しいこの事件は、当時の宮廷歌界に大きな影響をもたらしたに違いない。この自歌合、72首36番の7番左、判の結果は持であったが、俊成の判詞は、「左は『願はくは』と置きて『春死なん』といへる、うるはしき姿にはあらず」というものであった。俊成はこの歌を採らず、右の「来む世には心のうちにあらはさん飽かでやみぬる月の光を」を千載集に入れている。西行の処世の折々には、俗臭芬々たる面がみられるが、この予告往生の歌は、事実の結果に関係なく、いかにも臭い。

 後に『西行物語』が文芸と宗教の二つの精神世界を生きた放浪の世捨人の姿を定着させているが、世捨人たらんと訴え、世を厭うことを強調するあまり、花鳥風月の歌人に辟易する傾向がないでもない。しかし、西行の不思議な魅力は、さまざまな史実、伝説、逸話、虚構を探っていっても、全体像が浮かび上がらないところである。いかにも俗臭を放つ一方で、読者を不意に打つ自然な不思議な味わいと深さがあるのである。おそらくそれが、『西行物語』を産ましめ、さまざまなエピソードをもたらすのであろう。

西行の血脈である佐藤一族は、源平両氏に拮抗する実力をもった古豪族とされるイメージが古くからあったが、その後の研究で、藤原摂関家の荘園の在地領主として知行するとともに官途に就いていたことが明らかになっている。摂関家ばかりでなく、徳大寺家や平家の力にすがって生きていたのであり、藤原義清(のりきよ)(=西行)も一族の関係から、徳大寺や平家の人びとと交際していたのということである。

 こうして、後鳥羽院のときに北面の武士として御所の警護に当たっていた義清は、一族の置かれた地位から、現世の堅苦しさよりも風雅の道に惹かれ、和歌への関心を強めていた。『西行物語』では、義清の作った十首の障子歌を湛え、武士の名誉を示す御剣を下賜され、妃の待賢門院も十五枚の重ね衣装をくださったと書かれているが、そのうちの七首は西行晩年の『御裳濯河歌合』『宮河』の二つの自歌合にあるもので、おそらく後世に作られた逸話であろうといわれている。

 とはいえ、西行が北面の武士としての生き方を受け入れていたわけではなく、「妻子も宝物も、まして王位などは人の死に際して持っては行けぬもの。ただ戒律を守り布施を心がけ気ままにすごさないこと、これだけが現世来世を通じて友となりうるもの」といつも経文を心で唱えていたということはありえないことではない。

 そして、友人の佐藤憲康と一緒に退出した翌朝、約束どおり一緒に離宮に参上しようと誘いにいくと憲康は死んでいた。この突然の友の死に世の無常を知って、西行が出家を決意したというのが『西行物語』の作者の意図であるが、ほかにも、『源平盛衰記』に見られる恋愛が出家の動機という説もある。

 西行の出家の動機は、さまざまに語られるけれども、驚くのは、娘を縁から蹴落としたという逸話に見られる激しさである。妻子や家族への愛情は、この世に執着させ、人びとが仏になることを妨げるものだと気づいた西行は、いとけなき娘をいとおしく思う気持ちを敵として敢えて断ち切ったというのであるが、これが虚構や誇張でないとしたら、自分を律しきれぬ激情の男とするしかあるまい。この厭世的な無常観に捕らえられた人物と、激情に衝き動かされる人物とが一体となっているのが西行なのであろう。いずれにしろ、藤原義清は、23歳で西山の聖のもとに参じて西行を法名と号した。

 しばらくしたのち、伊勢を参拝し、二見浦に侘び住まいをし、花をめで月を眺め、花月をテーマとした日々を過ごす。しかし、3年ほどすると、「まだ見ぬ世界」に憧れる気持ちを抑えきれず、東国へと旅立った。天竜川の渡し場で、武士に打たれた事件を契機に同行とも別れ、小夜の中山、清見関、富士山……と東下りの風物に詩魂を動かされ、名歌をつくる。

   心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 歌界を代表する西行が「心なき身」というのは、いかにも胡散臭く、卑下自慢ともとられかねないが、俊成は「『鴫立つ沢の』といへる、心幽玄に、姿および難し」と激賞しながら、千載集では十八番の右で判は「負」としている。俊成はここでも、西行の胡散臭さを嫌って、これみよがしに無視したのかもしれない。

 引き続き、陸奥に向かった西行は、この地に没した藤原実方朝臣を知り、美貌の風流才子の悲運に同情する。『新古今集』哀傷の部に載っている詞書は

「みちのくにへまかれりける野中に、目に立つさまなる塚の侍りけるを、問馳せ侍りければ、「これナム中将の塚と申す」と答へければ、「中将とは、いづれの人ぞ」と問ひ侍りければ、「実方朝臣の事」となむ申しけるに、冬の事にて、霜枯れのすすき、はのぼの見えわたりて、をりふしもの悲しうおぼえ侍りければ」

  という長いものであった。

朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る

 この「貴種流離譚」の典型とも思われる一首は、『大鏡』に鏤められている美貌の好色才子といわれた実方中将が一条天皇の譴責をくらい、「歌枕を見て参れ」と言われた伝説が背景にある。柳田國男の「地名の話」に、「藤原実方が歌枕を見て参れと奥州へやられた事実は非常に悲しむべき不幸と考へられた。歌枕を見て来るとは、和歌に用ゐられる地理学上の用語を実物と比較して研究することであつて、今日の学問から言へば寧ろ名誉なる事業であるが、実方は其為に恨み死をして雀になつたのである」とあるように、当時の「歌枕を見て参れ」という命令は、島流しを意味するものであった。この実方の墓は、後に、俳人芭蕉も訪ねたことが『奥の細道』に記されている。

 そして、仁安2年(1167年)10月、西行は西国の旅を思い立つ。白峯で崇徳院の鎮魂を祈り、善通寺で弘法大師の遺徳をしのんだ。この西行の白峯詣でについては、本ブログの「白峯神社と崇徳上皇」

 

 

ですでに書いているのでここでは触れない。ただ、この西国の旅において、西行が高野山に籠り、人造人間をつくったという話が『選集抄』(第5巻第15)に載っている。

 西行が高野山に住んでいたころ、月の夜には友人の聖と奥の院の橋の上へ行き、風情にひたって歌など詠み交わしていた。ところが、その聖が都に用事ができたと言って去ってしまうと、一人になった西行は風流な友が欲しくなり、鬼が人の骨を集めて人を造ることを思い出し、その方法を真似て、野で集めた骨を並べて人を造ってみた。ところが、その人造人間は肌の色が黒く、声も笛を吹き損じたような音で、何よりも心がなかった。始末に困った西行は、心がないから草木と同じとはいうものの、壊せば殺生をしたことになると考え、高野山の奥の誰もいかないところにやむなく置き去りにしたというのである。その後、都に帰った西行が中納言師仲に会ったとき、その話をすると詳しく聞きたいというので、「死人の骨を取り集め、頭から手足の骨を間違いないように置き、砒霜(ひそう)という薬を塗り、苺とハコベの葉を揉み合わせて、藤若葉や糸などで骨をからげ、水でたびたび洗いました。頭など髪の毛が生えるところには西海子の葉とムクゲの葉とを灰で焼いてつけ、土の上に畳を敷いて骨を横たえて風が吹き通らないようにし、二十七日後に沈と香をたいて、反魂の術を行いました」と答えた。すると、師仲は、「あらかたはそれでよいが、反魂の術に問題がある。藤原公任流の人造人間の造り方で私が造った人造人間は、現在公卿になっている。ただ、それを表沙汰にしてしまうと、造った者も造られた者も体が溶解してしまう。方法だけ教えてあげるが、香を焚いてはいけないのだ。沈と乳を焚くのが反魂の術だ」と教えてくれたが、西行は、そんなものを造っても無駄なことだと考えて、造らなかったというのだった。

 この「反魂の法」の伝説こそ、フランケンシュタインまがいの西行の胡散臭さを表したものであろう。事実は、ともかくとして、西行には文芸と宗教の二つの精神世界を生きた魂の軌跡があり、その両者の鬩ぎあいのうえに成り立っていると見えるところがある。その鬩ぎあいがときには、人の命も左右する胡散臭さとして現われ、ときには孤独で深い精神の底を覗かせるのである。そして、歌人としてであれ、修行僧としてであれ、激動の時代を生きた西行の全体像はそうした伝説を超えて裸の自然を表しているのである。

   ふる畑のそばにたつ木にをる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮

   きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく

   津の國の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風渡るなり