ちょっと前のこと今月17日に石垣島に避難しているKご夫妻が沖縄本島に来られてので案内をすることになった。

 

希望を聞いたところ「ひめゆりの塔」に行ってみたいとのことであったので、T嬢に車を提供してもらい更にT嬢の運転で出かけてきた。

 

そういう僕もまだひめゆりの塔には行ってない。いつかは行こうと思ってはいたが、なんかテーマが重すぎて行きそびれていた。

 

 

 

 

 

 

1945年3月23日沖縄師範学校女子部・沖縄県第一高等女学校の生徒222人、教師18人計240人が那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属された。

 

3月26日米軍は慶良間列島に侵攻、4月1日には沖縄本島中部西海岸に上陸。米軍の南下に従い、日本軍死傷者が激増し、生徒たちは護送されてくる負傷兵の看護や水くみ、飯上げ、死体埋葬に追われ仮眠をとる暇もなくなっていく。

 

5月下旬米軍が迫る中、生徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南部に向かった。移動先の安静もつかの間、激しい砲弾の続く中で6月18日を迎える。

 

生徒たちは突然の「解散命令」に絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げまどい、ある者は砲弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失った。

 

陸軍病院に動員された教師・生徒240人中136人が亡くなった。

 

米軍は沖縄戦を日本本土攻略の拠点を確保する最重要作戦と位置づけ、物量のある限りを使い、対する日本軍は米軍の日本本土上陸を一日でも遅らせるために壕に潜んでの防衛・持久戦をとった。

 

沖縄を守るため、軍は県民の根こそぎ動員を企てると同時に、学徒隊を編成して生徒たちの戦場動員を強行した。

 

持久作戦、根こそぎ動員は12万人余にのぼる沖縄住民の犠牲を生んだ。

 

                       (以上、ひめゆり平和祈念資料館のパンフレットによる。)

 

まことに以って悲惨だ。今、僕が住んでいる沖縄、いや日本はこのような犠牲の上に成り立っている。

 

本土の中央政府は「辺野古への移設が唯一の解決策だ」とか全国から500人の機動隊員を駆り出して高江のヘリパット建設に躍起になっているが、このような歴史を踏まえると現在の中央

 

政府の態度は到底容認できるものではない、との思いを強くした。