1905年(明治38年)に始まった第一次落語研究会で四代橘家圓喬が掛けたネタについては、個々の圓喬全集で紹介することといたしまして、ここでは有名無名実名仮名を問わず演芸誌に寄せられた落語研究会の評論を二つ紹介したいと思います。
 落語鑑賞の一つの切り口として、お読みいただければ幸いです。

 第一回落語研究会を観て、十年後の第百十三回研究会に臨んだ、正宗白鳥の随筆です。蛇足注は( )内に記し、新字新かなに直して全文引用いたします。

 

落語研究会
正宗白鳥

 昨日午後過ぎからカラッと晴れていた空も今朝起きて見るとまた掻き曇っていた。新聞の戦争記事を地図に照らして熱心に読んでいる中、秋雨はしょぼしょぼと音を立てた。台風近づけりという天気予報が当たっているのか、雨に涼味が伴わないで、いやに暑くてべたべたする。私は四種の新聞を隅から隅まで読み終えると、今日はこれから何をしようかと暫くぼんやりしていたが、ふと久しぶりで落語研究会へ行って見ようかと思い付いた。で、新聞を引き寄せて番組を見たが、この研究会はすでに百十三回目になっている。最早かれこれ十年も経ったのだろうが、私はこの会の第一回を知っている。演芸批評家として招待券を貰って聞きに行ったので、楽屋で茶菓の饗応にも預かった。高座ではよく見ていた落語家の平常の態度や話し振りが珍しかった。この会が繁盛するかどうかということが彼らの間にも疑問となっていた。あなた方が痛い批評をなさるんだろうというような事を圓喬(四代橘家)がしゃがれ声で言っていた。不遇の落語家圓左(初代三遊亭)がこの会で自分の腕を見せるつもりか、小粒な目を張ってしきりに立ち働いていた。招待席には三木竹二氏(劇評家 森鴎外の実弟)が来ていて、「小さん(三代柳家)はいやにガラガラしていてちっとも味がない。やはり圓左一人だね」と、伊原君(敏郎 演劇評論家)に向かって言っていた。が、圓左は口の中でぶつぶつ言っているばかりで、私の耳には良く聞き取れなかった。馬楽(三代蝶花楼)の「ちぎり伊勢屋」(ちきり伊勢屋とも)と圓喬の「茶金」が最も面白かった。
 今日の番組を見ながら、第一回を顧みるに、馬楽も圓左も圓喬も故人となって、頭株では圓右(初代三遊亭)と小さんとが残っているばかりである。この頃新聞の広告に二人連合の演芸会が出ているが、「皆んがいなくなったから、おれとお前と共謀ぐるになって儲けようじゃないか」と言っているように、内幕を知らない私には思われる。私は奮劇の歌六を好まないごとく圓右の噺を好まない。老婆老爺ばあさんじいさんの声もいやに声色じみて臭味がある。指をいじりながら子供の真似をして甘えた声を使う時などいつも型どおりにわざとらしいことをやっている。同じ古臭い人情噺をしても、圓喬のには底光りしている所があった。
 小さんの人気は圓喬や圓右の比ではないらしい。三木さんの言ったようなガラガラした調子もこの頃は落ち着いて非常に円熟している。この人の歓迎されるのは、人情噺よりも、軽妙な写実の喜ばれる時勢のの風潮を指示している。小さんの話すある種類の者には、自然の滑稽自然の風刺としての棄てがたい芸術品がある。そして、彼の話っ振りは、いかにも自然である。
 私はこんなことを思いながら、早午飯ひるをすまして、雨を冒して薬師の宮松へ行った。ここは常磐木倶楽部(第一回から落語研究会が開催されていた寄席)ほど電車の音に妨げられないだけいい。雨にかかわらず聴衆は満員だった。さん馬(六代翁家 後の六代三笑亭可楽)だの圓窓(三代三遊亭 後の五代三遊亭圓生)だのむらく七代朝寝坊 後の三代三遊亭圓馬)だの四五人のを聴いたが、小さんは予定の順序になっても姿を見せないでむらくが二度も出た。私は聞き飽きて我慢できなくなって外へ出た。

正宗白鳥全集 第10巻 新潮社 1967年 より

 

 圓右の評価の件を読んで、あたくしは音源でしか知りませんが三代三遊亭金馬を思い出してしまいました。圓右・金馬ともに評価の分かれる噺家だったのでしょうかね。
 次は幸兵衛という筆名の方の落語研究会第二回の評論です。少々癖のある文章ですが、蛇足注は( )内に記し、演者の評論部分を引用いたします。

 

落語研究会
幸兵衛

 ■小さん「お見立」、芸人に年なし。新造、若い衆、と述べて肝心の女郎が上に還るまでのところあくまで自然にして寸毫の無駄なく、滅法に好く出来たり。
■圓右の「巌流島」一体に好く出来たり、屑屋がクドクドと述べて悪ふざけなどせず、生酔い浪人、老武士、乗り合い、とほどほどに口を利かしめたるところ、本筋たるところなるべし。ただすべてが舟中の出来事なればああまで身体を振らでも也。
■小圓朝
(二代三遊亭)「一つ穴」玄関にて細君と妾の応答最好し、旦那の慌てようまた好けれど少しシツコし、これ寄席での病が現れたる也、サゲの前二三言に申し分あり。
■圓蔵
(四代橘家)の「八笑人」(花見の仇討)時節がら場所がらこの日この話しはまず当を得たりとなすも、第三回あたりより、この人には今少しシンミリしたる飽くまで渋きものを出して貰いたし。
■圓喬の「三味線栗毛」圓喬の話をウマいというは胡椒をカラしというに異らねど、この日のこの話はまた無類の出来にて、故圓朝以上の技量ありという楽屋の評判を事実と認めき。盲目の声音など今時の役者にも義太夫語りにも真似の出来ぬ事也。この人寄席の高座にては懐手をなし、火鉢の縁に手を掛くるなど不行儀の限りを極むれど、この日この事なきは嬉しかりき。


雑誌「天鼓」3号 北上屋書店 1905年 より

 

 この回には圓左も出ていたのですが、この幸兵衛さんが遅刻して圓左を聞き逃してます。
 最後は明治45年ですから第八十回あたりの落語研究会の評論です。白猿という筆名の寄稿です。前段の文と演者と演目を記します。

 

落語研究会記
白猿

 お後が見えたようで、と断ってソコソコに高座を降りる、色物席の
落語はなし(昔は落語を演る寄席は色物席と言われてました)は、時間が短いというのも一つの理由であろうけれど、なんとなく物足らず、演る方でも、あまり急がせられるのは誠に演り難い事でもあろう、少数の頭数で、ミッシリ聴かせてくれるという一事だけでも、研究会の存在価値が十分に認められる。幹部諸君の熱心を期待しながら、回を重ねるたびに、ますます研究会が発展してゆく事を切望するのは、凝り屋の僕ばかりではあるまいと思う。(以下演者と演目を記します)
 小圓蔵(橘家 後の五代圓生 三遊亭圓窓に改名する直前「夢金」
 むらく「古着屋」(別題 古手買い 古着買い)
 むらく(小三治の代演 小三治は後の二代柳家つばめ)「三枚起請」
 圓蔵「王子の狐」
 小圓朝「一つ穴」(第二回に続いて小圓朝は一つ穴を掛けました)
 しん馬(古今亭 後の四代志ん生)「三人旅」(絶賛されてます)
 小さん「百川」(あまり良い出来ではなかったようです)
 圓右「締め込み」
 圓喬「おせつ」(おせつ徳三郎 花見小僧から刀屋まで通したようです)

雑誌「落語と浪速ぶし」創刊号 春江堂 1912年 より

 

 このでもむらくが代演で二席してますね。(^^)  この雑誌「語と浪速ぶし」巻末に読者からの投稿が記載されているのですが、面白い投稿がありましたので紹介いたします。

 

圓童に柳童に小金馬の三少年落語のうち、誰が有望だろう

 ここに登場した、圓童は後の六代三遊亭圓生、柳童は六代春風亭柳橋、小金馬は不明です。後の柳家金語楼が小金馬を襲名したのは、この雑誌の発行の翌年、1913年なのです。恐らく大成せず消えてしまったのでしょう。
 他にも少年落語家はいたと思うのですが、この投稿者は中々に噺家を見る目があるようです。(^^)