前回は圓生が『福禄寿』を高座に掛ける三十年前、十歳の圓生が落語研究会で観た圓喬の高座に対する記事を紹介しました。今回は『福禄寿』の高座まで四年と迫った1975年の記事です。
 雑誌「商工ジャーナル」一巻五号 1975年(昭和50年)から、
 圓生75歳時「落語の神髄」と題した商工組合中央金庫理事長の高城元との対談です。

 

 落語の神髄
 三遊亭圓生
 高橋 元


(前略)
高橋「何年か前にNHKの正月番組で橘家圓喬という人の話を師匠がされた。その時師匠は、昔橘家圓喬の『福禄寿』という噺を舞台のそでで聴いていて、いかにも鬼気迫るような、人の使い分けが非常にうまかった、というお話をされておりましたね」
圓生「あの頃は、あたしも十才とおぐらいのときなんですよ。隣の人に連れられて聴きに行ったら、お客がいっぱいで(舞台は)背が小さいもんだから見えないんですよ。ところがしーんとしちゃってね。なんにも音がしない。子どもですから気味が悪くなっちゃって……。四十分ぐらいやりましたかね」

(ここから圓生は『福禄寿』の詳細なあらすじを語ります。登場人物の説明から始まって、北海道で開拓をして成功するまでなんと1,300文字あります。前回のあたくしの下手っぴなあらすじで約700文字ですから、圓生の熱の入れようが分かります。そして圓喬の高座についての感想を述べるのです)
 この噺を四十分くらいでするんですが、それが人間がどこへ歩いて、そこにいて、こっちへ歩いているのか、向こうへ歩いたか、ちゃんとわかる――聴いていてね。いやぁ、こいつは実にうまいなあと思ってね。なにしろ動いているのがはっきり分かるんですよ。
高橋「なるほど。そりゃ、たいへんなもんだ」
圓生「あまりにもうますぎて……。だから榊原賢吉という明治時代の剣道の大先生が批評して、刀で言うと圓朝は研いだ正宗で圓喬は村正だって言うんです。実にうまい評だと思って……。」

高橋「師匠はおやりにならないんですか。『福禄寿』は……」
圓生「やりたいなと思いましたけども、あまりにもすぐれたものを聴くと恐れをなして、やっぱりなかなか手がつかないんですね」

高橋「だけども、今の人は圓喬なんて全然知らない」
圓生「えー、もちろん知りませんね。ですから死んだ文楽とか、志ん生とかが集まって芸談になるってぇと、いつでも圓喬の話が出ますね、うまかったってね。死んだのは四十八歳でしたね」

高橋「惜しいですね」
圓生「あたしは十四、五回ぐらいしか聴いていないんですが、あんなうまい人のは聴いたことがない。噺のネタは悪くありませんしね」

(以下略)


雑誌「商工ジャーナル」一巻五号 1975年(昭和50年) 圓生『福禄寿』まであと四年

 

 圓生は謙遜しておりますが、すでに『福禄寿』を掛けるべく稽古していたのではないでしょうか? それほど詳しいあらすじを語っております。しかも、圓朝は五百円としている金額を、圓生のあらすじでは三百円としております。後に圓生は高座でも三百円として演じました。すでに自分の『福禄寿』を考えていたのだと思います。
 1979年7月30日、圓朝祭において圓生が『福禄寿』を口演しました。当時八十歳の圓生最後のネタ下ろしです。
 この半年前の1月21日、代官山のレストラン小川軒の裏手に「小山亭」という日本料理屋がありました。そこで開催された落語の後の随談で圓生が圓喬の『福禄寿』について語りました。
 多くは前回紹介した落語研究会の忘年演芸会の思い出とかぶるのですが、圓生が強調していたのは「子どもで小さかったため、高座は見えないが、登場人物の動きが舞台を見ないでも声だけで分かった。聴いていて心を打たれた」としみじみ話しております。
 この時も自身で『福禄寿』を高座に掛けようと思っているという話はありませんでした。
 そして圓朝祭当日、圓生は約三十二分という時間で『福禄寿』を演じきりました。圓喬は四、五十分で演じたと圓生は語りましたが、自身はさらに十分以上磨いて演じたことになります。圓朝の速記は恐らく一時間近い長さになると思いますが、それと比べると、冗長ともいえる背景説明や酔って雪道でぶつかる甥の新坊などをバッサリと省いてます。圓朝は福徳屋万右衛門喜寿の祝いの席としてましたが、圓生は親戚一同の集まりとだけしてます。細かいことですが、ここは次郎・太郎・喜寿福禄寿としていただきたかったです。(^^)
 圓朝は福次郎が母親に預けた五百円の内三円を福島への路用として禄太郎は借りましたが、圓生は三百円と十円としております。  圓朝は禄太郎が甥の新坊にぶつかって悪態をつくことで酔っている様を演じましたが、圓生は『一人酒盛り』のように一人ブツブツと演じてます。これは圓生の工夫でしょう。誠にもって見事な演出です。
 現在この『福禄寿』は圓生の型で他の噺家(柳家さん喬・柳家三三)が演じておるようです。


 幼き日の橘家圓童(後の六代三遊亭圓生)が感銘を受けた圓喬の『福禄寿』。その高座は1910年(明治43年)12月31日でした。  圓生が追い続けた圓喬の『福禄寿』、もし圓喬と同じ年末の高座を考えていたとしたら……。日の目を見ることはなかったのかもしれません。虫が知らせたのか、それとも真夏に『鰍沢』を掛けてお客が寒さを感じた圓喬の至芸を追いかけたのか、あるいは天に導かれたか、真相は分かりませんが、あたくしは圓生が『福禄寿』を遺してくれたことに感謝いたします。

 圓生が檜舞台に立ったのは(落語なので、檜舞台に座った、でしょうか?)、1914年(大正3年)10月の第114回落語研究会の高座に番外として上がりました。演目は『錦の袈裟』圓生十五の秋です。
 噺家人生最後のネタ下ろしが七十九歳の夏、この『福禄寿』です。
 常に素敵なコメントをくださる憲坊法師さんは、最初に耳にして圓生に惚れたのが『錦の袈裟』と伺ったことがあります。そして、言うまでもなく法師さんにとってのお名残は『福禄寿』です。圓生の芸歴と法師さんの体験がこうも重なり合うとは、そんな名人に巡り会えたことを羨ましく思います。なにせあたくしは生まれるのが百年ばかり遅くて、圓喬には会えませんでしたから。

 

 

圓朝全集 福禄寿の挿絵 水野年方


『鰍沢』と『福禄寿』という圓喬伝説とも言うべき演目が終り、一区切りつきました。少しのお暇をいただいて心機一転書き進めますので、今後ともよろしくお願いいたします。