長くなりそうなので、とっとと進めましょう。

 

  1. 上手の手から水が漏る? 四代圓生の不手際とは?
  2. お熊の亭主伝三郎は死んだのか?
  3. 釜ヶ淵ってどこよ?

 

 前回は1と2をお送りしまして、今回は3です。

 釜ヶ淵ってどこよ?

 今回は時系列を逆にたどりましょう。
 まずは六代圓生からです。圓生は当初「釜ヶ淵」で演じてました円生全集にも「ところも名代の釜が淵」とあります。
 しかし後に「ところも名代の蟹谷淵かにやふち」としました。この経緯について圓生百席の覚え書きに詳しいです。

 

 場所のことですが、「ところも名代の釜ヶ淵」と昔はやっておりました。釜ヶ淵というところは実際にはないんです。一朝さんもそう言っていました。ないけれども、ヤマをかけるために言うんだと……。あたくしは鰍沢へ行ってすっかり調べました。蟹谷淵というのはあるんです。難所だそうで、法輪石からの方角、距離も無理がないので、それからは蟹谷淵でやっています。

 

 確かに圓生百席では「蟹谷淵」で演ってますね。
 五代圓生は、「釜ヶ淵」という名称は使わず単に「急流」としてます。
 圓喬も同様に「急流」とだけ表現しています。
 四代圓生では、「東海道名代の岩淵へ落とす水勢矢を射る如く鰍沢の釜ヶ淵というところで、ドウドツと押し流しています」と釜ヶ淵です。
 圓朝のそれを忠実になぞった一朝はというと、「前は東海道岩淵へ落す急流、しかもこゝは釜が淵と申す難所でございます」と当然「釜ヶ淵」ですね。
 どうやら圓喬あたりから釜ヶ淵を用いなくなったようですね。それを六代圓生が一朝老人言うところの「ヤマをかける」ために用い、後に実際の地名「蟹谷淵」としたようです。
 それでも、今でも多くの噺家が「釜ヶ淵」でしょう。あたくしもそれで好いと思います。
 甲府盆地を南東に流れる川があります。南アルプス横岳峠に源を発し、鰍沢付近で笛吹川と合流して富士川となるこの川は釜無川かまなしがわと呼ばれております。甲州では川の深淵を釜といい、この川は砂川で淵がないことから「釜無川」と呼ぶ、という説があります。
 となると、釜ヶ淵は淵を表す方言の「釜」と文字通りの「淵」と重複した名称になりますね。ですが「ところは名代の釜ヶ淵」というのは調子も語呂もいいですから、言いたくなりますよね。(^^)
 ではなぜ圓朝は実在しない「釜ヶ淵」を用いたのか? これには『鰍沢』の原案者である河竹黙阿弥が大きく関わってきます。
 天保六年(1835年)六月から、当時二十歳の黙阿弥は甲州へ旅をしております。半年前に鶴屋南北の弟子となり、狂言作者として駆け出しの黙阿弥が、尾上松助の一座に付いて甲府の亀屋座へ行った時の往復記です。
 六月十九日の四つ半(今の午前11時頃)出立し、一日数行程度と時に絵入で簡単な覚え書きになっております。

 二十三日には早くも甲府に入り、目指した劇場「亀屋与兵衛座」に到着しております。四日で甲府まで歩いて行け! と言われたらあたくしは「無理無理無理……」と逃げ出します。昔の人はやはり健脚ですね。
 一座は数日の稽古の後二十八日から翌七月の十七日に千秋楽を終え、夜の八つ半(午前3時頃)に出立し、翌日に鰍沢に着いております。そこから舟と徒歩で身延山へ参詣し翌朝舟で岩淵まで行っております。鰍沢から岩淵までくだり舟ですから所要時間は二時ふたとき(4時間)で、逆にのぼりの岩淵→鰍沢は曳舟(人足が陸から舟を曳く方法)で四日掛かるそうです。さすがに東海道は岩淵へ落ちる急流だけのことはありますね。
 この時の舟からの様子が書かれてありまして、芝川手前で釣り橋を見かけます。その文章が「釣橋。釜ヶ淵という、ごく難所。」とあります。釜ヶ淵は鰍沢周辺ではなく岩淵近くだったようです。これを覚えていて、語呂がいいので作中で用いたのではないでしょうか? というのが、あたくしの推理です。
芝川町誌編纂委員会 編纂『芝川町誌』追補,芝川町,1985.3. 国立国会図書館デジタルコレクション より
芝川町誌編纂委員会 編纂『芝川町誌』追補,芝川町,1985.3. 国立国会図書館デジタルコレクション より
 ですので、圓朝は原案者の黙阿弥に敬意を表し実際には鰍沢周辺にはないけれども釜ヶ淵という難所を「前は東海道岩淵へ落す急流、しかもこゝは釜が淵と申す難所でございます」と残したのでしょう。

 前回のその一憲坊法師さんから興味深いコメントがありました。

三題噺ですから、そのように入り組んだものにはできなかったのでしょうね。

 蓋し名言です。これを証明するかのような事例がまさに『鰍沢』の中にあります。
 お熊と伝三郎という夫婦の名前の設定がそれです。元禄のころより江戸末期まで大道に熊の膏薬売りがおりました。落語『がまの油』のようなものでしょうが、その絵がこちらになります。

近世流行商人狂哥絵図 より熊の伝三でんざ膏薬 天保六年
 熊の膏薬売りを「伝三膏薬として売っております。従ってお熊と伝三郎は実に分かりやすい(三題噺に登場させやすい)夫婦の名だったと言えます。
 お題に「熊膏薬」とあるので、黙阿弥はお熊と伝三(少し変えて伝三郎としてますが)をすぐに思いついたのでしょう。
 そしてもう一つのお題「いかだ」から、かつて舟で下った芝川の難所「釜ヶ淵」を出してやろうと発想したのでしょう。
 残されたお題「玉子酒」も、旅先で呑んだ地酒の香りがキツくて、玉子酒にして呑んだのかもしれませんね。
 別の三題「花火 後家 峠茶屋」を貰って、続編という形で『鰍沢二席目』(晦日の月の輪)を書いたのも、前作『鰍沢』で亭主伝三郎が死んでいなかった(黙阿弥が殺していなかった)ため、創作できたのだと思います。
 そのため圓朝も、『鰍沢』では伝三郎の死を暗示させる内容にしてしまうと、『鰍沢二席目』に差し障るので、そうしなかったのでしょう。このあたりは圓朝の創作に対する姿勢というか、礼儀正しさを表していると思います。そしてそのことをあえて弟子たちに伝えないあたりも圓朝らしいといえば圓朝らしいのでしょうかね?(^^)


 最後に圓喬の速記について触れておきます。
 速記者は一朝の『鰍沢』と同じ浪上義三郎です。一朝の速記には見られない何カ所かのト書きで圓喬の仕草(旅人が懐から金を出し仕草 それにお熊が目をつける様 など)を書き込んでおります。よほど印象に強く残ったのでしょう。
 さてさて、長きにわたり書き連ねたこの『鰍沢』物語、釜ヶ淵の流れのようには筆が進みませんでしたが、そこはご勘弁願いまして、これでまず今回はこれぎり――(芝居噺『鰍沢』最後の台詞 よりパクりました)


 次回は圓喬の速記はないのですが、実際に高座を見た圓生が『鰍沢』よりもべた褒めしている『福禄寿』をお届けいたします。