圓喬全集第五十六席【鰍沢】の前に、昭和の名人上手たちが圓喬の『鰍沢』をどう観ていたのか? 紹介したいと思います。昭和の名人上手、入門順に志ん生・文楽・圓生・彦六の四名はそれぞれに圓喬評を残しているのですが、今回はその中から圓喬伝説の『鰍沢』 について抜粋します。
 まずは五代古今亭志ん生から、

 

身にしみた円喬の意見
  自分で苦労する外に途はない

 楽屋で真打連に茶をくんでいたころだから、あたしがまだやっと前座の毛の生えた位の時だったでしょう。両国立花家の楽屋で元老の一朝さんに茶を出していると、急にさあーッという水音です。
「オヤ、あいにくのお天気ですネ、雨になりました」
 というと、耳の遠い一朝さんが、
「おかしいネ、おれが今来た時はめっぽういヽ天気だったが……」
「でもあんなに雨の音が……師匠には聞こえませんか」
 と楽屋口の戸を開けて見ると、雨どころか星が降るようです。キツネにつままれた気持ちで、ひょいと簀戸越しに高座を見ると、円喬さんが『鰍沢』を熱演しています。
 ――東海道岩淵を落とす鰍沢の急流……客席は水を打ったよう。その静まり返った中で円喬さんがさあーッという急流の水音を聴かせたのが、楽屋のあたしの耳にそっくり雨の音に聞こえたです。あゝ、円喬てえ師匠は何て巧い人なんだろうと、その時つくづく聞き惚れちまって、高座からおりるのを待って、
「師匠、あたしをぜひ弟子にして下さい、どんな辛抱でもしますから」
 と頼むと、

(以下略)


芸談 著者:東京新聞社文化部 編 出版者:東和社 1951年 より原文ママ

 

 志ん生が圓喬に惚れ込んだ瞬間でしょうか?  この先が気になるところではありますが、この項とは趣旨がずれますのでいずれ機会を見て紹介します。
 次は黒門町の八代桂文楽です。

 

名人円喬

 円喬師匠はいつも早くから楽屋入りをして、お帳面(その晩の演題のかいてある)をくりながらある晩、
「お前はどなたのお弟子ですえ」
 ときかれました。
 丁ど私が五明楼国輔さんにおそわった「しめ込み」をやって下りてきたときです。
「ハイ小南師匠の門人で小莚と申します」
 私が答えると、
「『しめ込み』は真打のはなしだよ。前座のお前がいくらやってもうまくは出来ませんよ」
 と叱られました。
 そのあと、めくら蛇におじずとはこのことでしょう。柳ばしの円橘師匠(いまの人から二代前で、一字もよめない人なのに太郎冠者先生の新作をよくやりました)が、「師匠『たらちめ』をきかせて下さいな」とたのむと、「あいよあいよ」と一々やってくれるので、万事そのでんヽヽだとおもったんですネ、大ていの真打がおぞ毛をふるって体をわす円喬師匠に、
「師匠『鰍沢(かじかざわ)』をきかせて下さいな」
 といったもンです。
「………」
 そうしたら何にもいわないで円喬師匠は、ジイーッと私をにらみました。いつまでもいつまでもにらんだままなんです。急に何だかこわくなって来て私は、だんだんだんだん後へずさり、丁ど猫へかん袋をかぶせたようにあとびしゃりヽヽヽヽヽヽをしながら、とうとう向こうの楽屋へ逃げ込んでしまいました。
(中略 ここもおもしろいエピソードが書かれてあるのですが、それはいずれまた)
 なかでも「鰍沢」は天にも地にもない巧さで、吹雪のなかを旅人があの山の中の一軒家へ辿たどりついて笠をとった動作(どうさ)、合羽をぬぐ趣向(しゅこう)、手をかじかめてソダヽヽをくべて、フーッとそのソダから煙りが吹上がるあたり、それからソダの火の明かりで月の輪お熊の顔をみて、(この人どこかでみたような女だがなあ)
 と考えるその目つき。
「お神さんのお言葉の様子では、あなたは江戸っ子のようにお見受け申しますが」
「アイ江戸なんですよ」
「さようでございますか……どうも……江戸はどの辺でいらっしゃいます」
「浅草へんなんですよ」
「浅草……ちがいましたらお詫びをいたしますが、あなた吉原においでになったことはございませんか」
「郭(なか)にもちっとばかりいたことがあるの」
「おあんなさいました、ちがったらお詫びをいたしますが、あなたは熊蔵丸屋(くまぞうまるや)の月の戸おいらんじゃございませんか」
ビックチビックリ
(けんちゃんのコメントにより訂正しました)したこと、おまはんヽヽヽヽ誰……」
「アーッ、おいらんでしたか」
 といいながら、ソダへ指をッ込むので、
あつあつ、あつつ……」
「アラあぶないこと、いろりヽヽヽに手をッ込んで」
 というあたり、いまでもマザマザと目と耳にのこっております。
 やがて、
「おいらん何かおみやげの代りに」
 と、ふところへ手をやって小粒(こつぶ)を出す音を、小さく舌で聞かせます。前の方にいるお客にしか分かりませんが巧いもので……。そこをお熊がジロリとこうみる様子なんてものは、芝居だとてありますまい。
 地酒(じざけ)でこしらえた玉子酒で酔払った旅人が、
ヒビヽヽあかぎれをかくそうため、亭主は熊の膏薬売(こうやくうり)」
 と芝居がかりにいって、
「アハハハハハ」
 と大きく笑うところも結構でしたし、旅人を寝間へ連れて行くあたりはじつに色っぽく、いかにも伝法(でんぽう)な二十八、九から三十がらみのおいらんらしい女が、そこに出て来ました。
 お熊が酒を買いにいったあと、かえって来た亭主の伝三郎が笠をぬぐ形がまたじつによく、
「何だ酣鍋(かんなべ)で玉子酒をこしらえてくらっていやァがる。いい気なもンだ。やはり野におけれんげ草か」
 とつぶやくところも無類でした。
 この玉子酒の毒薬がきいて伝三郎が苦しみだす。
 戻って来たお熊が、
「オイこのなかには毒がはいっているのだよ」
「この阿魔あまア」
 と襟髪(えりがみ)をとるところから、この様子を旅人がきいている場面、全く五分のスキもなくって大入りの客が、ただもうシーンとせきばらい一つしないできいていました。
 旅人が雪をふくんで毒消しをのみ、胴巻(どうまき)を取返して逃げ出す。
「オーイ……オーイ……」
 とお熊が鉄砲を持って追駆ける、全くここらはもういきもつかせません。
 そして「鰍沢の流れ、東海道岩淵へ落ち、急流は矢を突くよう、ドッという水勢(すいせい)」というところでは、ほんとうに激しい水のながれが目の前に見えて、筏(いかだ)の一本になるところも手にとるようで、おしまいにあの「おざいもく(お題目)で助かった」のサゲになるのですが、その晩、つくづく私はおもいましたネ。
 この噺を十八番とする円喬師ながら、これほどの出来は、終り初物(おわりはつもの――ただ一回きり)ではなかろうか、と。
 あまり出来がよ過ぎたので、サゲをいってもお客の拍手の余裕(よゆう)がない。円喬師がふとんをはなれて少うしすると、ドーッと大へんな喝采(かっさい)でした。
 知らない客同士が煙草をすいながら、煙管(きせる)で隣の人をつついて、
「もうこれほどのはなしかは出来ませんな」
「名人ですねえ」
 と、いきをしながら、ポンポンと煙管を叩く、こんな景色もきのうのことのようにハッキリとおぼえています。


あばらかべつそん : 芸談 著者:桂文楽 青蛙房 1957年 より原文ママ

 

 ここで圓喬が『鰍沢』を演じたのは、関西へ移り住んだ二代圓馬が圓朝の年忌で久しぶりに帰京し、人形町末廣で興行を打ったときのものです。

 

 

 圓朝の命日は8月11日です。従いまして圓喬はこの『鰍沢』を真夏の高座に掛けたのです。
 黒門町はこの項を次のように締めくくっております。

 

「鰍沢」は、生涯この人よりほかにほんとうのやり手はないとしみじみ私はおもっていますが、「三味線栗毛」だけは何とか身につけて、たとえ故人の十分の一でもの味をおつたえしたいと心がけだして、もう何年になることでしょう。

 

 黒門町は生涯『鰍沢』と『三味線栗毛』は高座に掛けませんでした。
 長くなりましたので、圓生と彦六の正蔵については次回「その二」で申し上げることにいたしましょう。