噺家の手帖」(林家彦六著 一声社 1982年)から引用します。

 


 この随筆(後半からはテープ起こしとしたようです)は雑誌「民俗芸能」(著者:日本青年館公益事業部 編 出版者:民俗芸能刊行委員会 1960年~1999年)の別途会報に掲載されたものです。雑誌への掲載ではありません。
 本書の中で正蔵は圓朝や大師匠でもあるステテコの圓遊よりも、圓喬に多くのページを割いております。高座に接したこともなく、当然面識もなかった圓喬に対して、その生涯や芸について考察をしているのです。おそらく圓喬のゲイに惚れ込んでいた師匠三代圓遊などから多くを聞かされていたのでしょう。
 連載順からすると逆になるのですが、「円喬の演出」と題した『鰍沢』についての項を後に回しまして、「噂の落語百年史」(一〇)~(一三)の連載四回を使い圓喬に関するエピソードを紹介してますので、まずはそちらから原文ママ引用します。

 

 落語研究会の重鎮であった橘家円喬という人。生きている中から名人と謂われた人。明治の噺家を語る場合、この人の名を逸することは出来ない。明治に生きて明治と共に消えた名人円喬。芸は晩年の師匠円朝よりも傑出しているという評判をとりながら円朝の歿後、師匠名の円朝の襲名も家庭の事情が障害となって実現せず胸中不満のまま世を去った不世出の名人橘家円喬――私はこの方を悲劇の人と観る

 こんな書き出しで始まり、略歴や大阪弁と京都弁を自由自在に操ったことなどを紹介してます。誰に聞いたのか、次のような四代圓生と圓喬のエピソードを披露してくれてます。

 

 

 四代目円生<この人も名人>が誕生すると、その前名三遊亭円喬を襲名して円好改め円喬で名実ともに名人となった。ある晩ヨセの帰りに名人が円生にむかって「兄さん! どうして私はおおびと<多数の客>が呼べないンでしょうね」「そりァお前さんが巧すぎるからさ」名誉なことだ。巧すぎてお客が来ないこれは名人錦城斎典山にも云えることだがおおびとは取れなかった。断っておくが初日来場した客の頭数だけは千秋楽まで必ず続いて来る。そこが名人だ。お客様は見せられたように――。

 あの四代圓生に「お前が巧すぎるからだ」なんて言われたんですね。六代圓生圓喬の『蔵前駕籠』について「毛ほどの隙もないから面白味がない」なんて言ってました。

 この後に圓喬が妻子を捨てて入り婿したおげんさんについての言及があるのですが、少々長くなるので前半を端折って紹介しますと、
 圓喬と自分の結婚に批判の声が集中していることに、おげんは敢然と立ち向かった。圓喬をより以上の名人に仕上げようという作戦。
 当時の講釈師・噺家は築地あたりの料亭に出入りするのが一流の証。料亭の主人よりも仲居頭の好みによって出入りの芸人が決まる。さながら大奥の女中部屋のよう。

 

 

 賢明なおげんがこれに近づかぬ筈がない。ある時、ある家では便所を借りて、わざと汚して掃除婦と一緒に立働いて女中頭の同情を得たりあらゆる苦労をして毎夜の築地出演が定着して一流中の一流名人円喬の地歩を確保することが出来た。

 さすが女豪傑と評された女房ですね。
 この後は晩年の九州巡業のことに触れているのですが、ゴタゴタに見舞われたことを含めて、いずれ別項で書きます。
 次回は圓喬伝説『鰍沢』を紹介する前段階として、稲荷町を含め昭和の名人上手たちが圓喬の『鰍沢』をどう観たのか? 紹介いたします。