今回から正式に操競女学校の各話を圓朝と圓喬の速記比較を中心に進めたいと思います。
 圓朝の連載順の第一話『お民の伝』(圓喬は『お民の貞操』)になります。
 まずはあらすじから。

 

お民の伝(お民の貞操)あらすじ

 松平安芸守の家臣一柳源兵衛ひとつやなぎげんべえは少禄ながら心がけもよく段々と出世し、このたび江戸詰めを仰せつかり立振舞たちぶるまい(旅に出発する際に別れを惜しんだり 道中の無事を祝ったり してする 祝宴 宴会 by 新明解国語辞典)を設ける。その席上、酒癖の悪い上客(主賓)、余瑚弥市兵衛よごやいちべえ を源兵衛は斬ってしまう。直ぐに切腹の覚悟を決めた源兵衛は使いの者に、無紋の麻上下あさがみしもと国俊の合口あいくちを自宅へと取りにやる。
 使いの者が源兵衛の家へ行き妻のお民に事情を話すと、お民は平然とした態度で装束と合口を渡す。
 使いの者が戻ると源兵衛は立派に切腹を果たす。
 源兵衛の死後、お民の元には実の兄から婿養子の話が持ち上がるが、お民はこれを断る。しかし、このまま断ると兄は切腹することになり、また実の母親も出て来てお民を説得し、承知させる。
 お民はお家より操を立て、亡夫の墓前で自害する。

 

 あたくしの下手くそなあらすじだけを読むと、短くしかも単純な筋立てで、心学臭くて面白くもなんともありませんね。この噺のどこに面白みを加えて、聴き手(読み手)を如何に引っ張るか? 腕の見せ所です。
 さて、圓朝と圓喬の速記を比較して、両者が如何に味を出したかを見ていきましょう。
 短い噺ですが圓朝と圓喬の特徴がよく出ている噺なので、三回に分けてお送りいたします。
 圓朝・圓喬どちらも主人公一柳源兵衛と、その源兵衛に斬られる上役余湖弥市兵衛の人となりの説明から入ります。まずは圓朝から、蛇足責にて新字新仮名に直して適宜改行を入れ引用します。

 

 まず今日こんにちは山陽先生(蛇足注:江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人・書家であった頼山陽らいさんようのこと)のお書きになりましたお民の伝を始めましょう。
 このお民と申すものは松平安芸守さまの家来にて一柳源兵衛という人の妻でございまするが、感心なことにはこの婦人は屋敷中にても至って器量も良く品もありごく怜悧はつめいでございまするが、常には怜悧りこうを表に顕さずただ茫然ぼんやりとしているようだが、真利口なので少しも了簡が解りませんが、何か変事ことがあると胆がすわっていますから始めて立派な婦人ということが解りまする。
 この一柳源兵衛という人は少禄のものでございましたが、心掛けの宜しいところから段々昇進いたされて五十石頂戴いたすことになり、殿様のお側近くを勤めるについてこの度江戸詰を仰せつけられ江戸へ出立いたすので立振舞でございます。
 当今は送別会といって花屋敷の常磐屋とか八百善とか八百松
(蛇足注:いずれも当時有数の料理茶屋)などを借りて御酒宴がございまするなれども、昔は奢りませんし、ことに派手なことをいたしては重役から叱られるので宅でしても良いが少し狭い。ハテどこが良かろうと考えると、一柳とはごく懇意な方で中江玄斎という医者があります。町医なれど宅は広く庭も小広いからというのでこれへ頼むと、早々の承知でございますから広間を借りてお客を招待よびました。
 このときの上客は御小姓を勤めておりまする余湖弥市兵衛という方でございますが至って酒の上が悪い御方で、弥市兵衛などと申しますると柔和やさしいような篤実らしい名に聞こえます。忠臣蔵の五段目に出てくるのは与市兵衛で弥市兵衛などというと何だか意気地の無さそうな名ですがなかなか大違い、癇癪持ちで下役をいじめまする。
 酒癖にも色々ありまして、酒を飲むと陽気になって隠し芸を出したいとか、あるいはけんを打つとかいう癖があり、またはゲラゲラ笑う人がありブツブツ優れぬ人があって、三人上戸と申し泣いたり笑ったり腹を立てたりする。その他に悪く筋っぽく絡んだことをいう上戸もありまするが、この余湖弥市兵衛のはイヤニ筋に絡んだことをいうばかりでなく、恩にかけて物でも遣ったことがあると、衆人満座ひとなかで吹聴してあれは俺が救ったとか助けて遣ったとか言ってイヤニ恩にかけたことを言う悪い癖でございます。


明治21年4月11日~22日 やまと新聞掲載 お民の伝より
三遊亭圓朝 口演
酒井昇造 速記

 

 冒頭だけですが説法のように感じます。言葉の調子が圓朝らしく読んでいて引き込まれますね。それと、一柳源兵衛や余湖弥市兵衛に対しては敬語なのですが主人公のお民に対しては「このお民と申すものは……」と敬語ではありませんね。これも明治21年という時代なのでしょうか? 現代ならば「表現に女性蔑視が見られます」とクレームが入りそうです。(^^)
 これがおよそ20年後の圓喬の手になると、どのように変わるのか? あるいは変わらないのか? 圓喬の速記を同様に引用してみます。

 

 お民の伝記、これも頼山陽先生のお書きになりましたのを、故圓朝がやわらかい話に直したもので、松平安芸守様の御家来、一柳源兵衛と申す御仁の御配偶おつれあいとお民と申さるる婦人の貞操を主として書きましたものでございます。
 この婦人は年二十二の器量好し、普段はちとボーッとした位柔和な様子であるが、一朝大事に臨んで、丈夫も及ばぬ立派な行いを表しました。どうもあまり普段ちょこまかするものは、いざとなると、決して仕出かした例のないもので、忠臣蔵の大序の置浄瑠璃
(常磐津 ・清元など歌舞伎の舞踊劇の浄瑠璃で,曲の冒頭,踊り手が登場する前に演奏される部分。おき。by 大辞林)にも
国治まって好き武士の、忠も武勇も隠るるは、たとえば星の昼見えず、夜は乱れて顕わるる、
 とありまするが、何でも人間は事のあった時が大切なものだそうでございます。
 源兵衛は元は軽い身分のものでありましたが、心掛けの宜しいところから、だんだん昇進いたしまして、五十石取りと相成り、御近習を勤むるようになります。ところがこの度急に江戸詰という御沙汰が下りましたので、今までの朋友知己に饗応ふるまいをいたし、出府いたすことと、相成ります。
 当今ではこういう場合の送別会などと申しますると、花屋敷の常盤屋、あるいは山谷の八百善とか申すようなところへ招き、派手を尽くしますが、昔はごく倹約質素なもので、もっともあまり身分不相応の芸者なことでもいたしますると、重役から御叱言おこごとが出たもので、まず大概は御自分の御宅へ御客様を御招きになったものですが、源兵衛は家も手狭なところから、常より仲良しの町医中井玄斎
(蛇足注:正しくは中江だが圓喬の誤認もしくは速記者の中江と中井の聞き間違いと思われます)方は家も広し、庭もかなり広々と取ってありますので、この玄斎に頼みまして、ここの座敷を借り受け、例の出立の饗応ふるまいをいたしまする。正客は御小姓頭を勤めております余茂弥市兵衛(蛇足注:ここは恐らく速記者の余湖と余茂の聞き間違いでしょう)とおっしゃる方、どうもこの弥市兵衛などという名は、篤実温厚の君子らしく聞こえる。忠臣蔵の五段目に出る定九郎に殺されるのは与市兵衛、与市兵衛弥市兵衛などという名は聞いたばかりで、どうしても好人物のような気がいたします。ところがどういたしましてこの弥市兵衛と申すじんは、ごく癇癪持ちの気短か、ことに酒の上の悪い人。
 酒癖にも色々あって、酒に酔うと馬鹿に調子づき、隠し芸を出して、謡ったり騒いだりするものがある。これは元気上戸という好いお酒。また中にはお酒を飲むと、変にこう婦人を見ると戯れたがるものもある。剣呑なのは、泥棒上戸といって、四方近所の物を無闇に自分の袂へ押し込んでしまう。家へ帰ってみると両の袂から人の手拭いが二十六枚出たなどという御話があります。また謡曲、浄瑠璃、演劇や御狂言などにあります三人上戸、怒る人、泣く人、笑う人などなどさまざまの癖がございます。
 余茂与市兵衛の御酒は、いやにこうすじもじ・・・・と人に絡む癖。それのみならず、酔いが廻るに従って、人に世話をしたことを恩にかけ、これを衆人満座の中でしゃべるという、誠に嫌な御酒でございます。


明治42年4月23日~5月3日 時事新報掲載 お民の貞操より
橘家圓喬 口演
社員 速記

 

 圓朝と比べますとかなり現在の落語に近くなったと思うのですが、いかがでしたでしょうか?
 圓喬は落語調に膨らませてはおりますが、言葉などはほぼ圓朝のそれを踏襲しているように思えます。送別会という言葉しかり、常盤屋や八百善しかり、酒癖の説明など面白くしてますが、三人上戸という言葉も同じですね。
 これを圓朝と圓喬の芸質げいだちの違いとみるか、圓朝から二十年で寄席の客質が変わったとみるか、その両方のような気がします。
 圓喬が圓朝の言葉と構成を大切にしていた事がうかがえる導入部でした。

 次回は余湖与市兵衛が祝宴で酔う場面になります。今まで以上に圓朝と圓喬の違いが出ていると思います。

 

 

圓朝が参考にした奇文欣賞 元 掲載 頼山陽「記烈婦奥氏事」1868年(明治元年)