今回から正式に操競女学校の各話を圓朝と圓喬の速記比較を中心に進めたいと思います。
圓朝の連載順の第一話『お民の伝』(圓喬は『お民の貞操』)になります。
まずはあらすじから。
あたくしの下手くそなあらすじだけを読むと、短くしかも単純な筋立てで、心学臭くて面白くもなんともありませんね。この噺のどこに面白みを加えて、聴き手(読み手)を如何に引っ張るか? 腕の見せ所です。
さて、圓朝と圓喬の速記を比較して、両者が如何に味を出したかを見ていきましょう。
短い噺ですが圓朝と圓喬の特徴がよく出ている噺なので、三回に分けてお送りいたします。
圓朝・圓喬どちらも主人公一柳源兵衛と、その源兵衛に斬られる上役余湖弥市兵衛の人となりの説明から入ります。まずは圓朝から、蛇足責にて新字新仮名に直して適宜改行を入れ引用します。
冒頭だけですが説法のように感じます。言葉の調子が圓朝らしく読んでいて引き込まれますね。それと、一柳源兵衛や余湖弥市兵衛に対しては敬語なのですが主人公のお民に対しては「このお民と申すものは……」と敬語ではありませんね。これも明治21年という時代なのでしょうか? 現代ならば「表現に女性蔑視が見られます」とクレームが入りそうです。(^^)
これがおよそ20年後の圓喬の手になると、どのように変わるのか? あるいは変わらないのか? 圓喬の速記を同様に引用してみます。
圓朝と比べますとかなり現在の落語に近くなったと思うのですが、いかがでしたでしょうか?
圓喬は落語調に膨らませてはおりますが、言葉などはほぼ圓朝のそれを踏襲しているように思えます。送別会という言葉しかり、常盤屋や八百善しかり、酒癖の説明など面白くしてますが、三人上戸という言葉も同じですね。
これを圓朝と圓喬の芸質の違いとみるか、圓朝から二十年で寄席の客質が変わったとみるか、その両方のような気がします。
圓喬が圓朝の言葉と構成を大切にしていた事がうかがえる導入部でした。
次回は余湖与市兵衛が祝宴で酔う場面になります。今まで以上に圓朝と圓喬の違いが出ていると思います。
圓朝が参考にした奇文欣賞 元 掲載 頼山陽「記烈婦奥氏事」1868年(明治元年)