橘家圓喬が1894年(明治27年)の「百花園」に残したこの噺、絶滅したものと思っておりましたが、たま~~にお目にかかれる噺となりました。
 まずは圓喬の速記から少々長めにあらすじを書きます。

 

 日本橋伊勢町の金貸し業、文屋検校ぶんやのけんぎょうの息子康次郎やすじろう小日向こびなた水道町は松月堂しょうげつどうの娘お里が冥土で出会う。生きている時は相思相愛の仲だったが、互いに思いを告げられず死んでしまった。ならばせめて冥土で結婚しようとということになった。
 しかし閻魔大王には二人が娑婆では夫婦でないということがバレてしまい、康次郎は赤鬼青鬼に引かれていき、お里は生塚しょうづか
の婆
(原文ママ:奪衣婆だつえばのこと)預かりとなる。
 閻魔大王は妾を探していて、お里に目をつけたと鬼から聞く。このまま康次郎を冥土で死なせておいては邪魔になるから、いたぶってぶち生かせと仰せつかっている鬼たち。せめて痛くないようにしてくれと懇願する康次郎に鬼は「地獄の沙汰も金次第」と袖の下を要求する。康次郎はお金は持ってないが死んでこちらに来た者たちが残した貸し付け証文を持っていた。鬼は地獄で貸付け所を始めるられると喜び、康次郎に娑婆へ帰る道を教える。
 一方、お里は生塚しょうづかの婆から閻魔大王の妾になるよう因果を含めれるが、首を縦には振らない。しびれを切らした婆は折檻とばかりにお里を庭の松の根元にくくりつけ「ゆっくり雪でも見て居るがよい」とパッタリ立て切る障子の外。
 お里は「娑婆で散々苦労してエンヤラやっとこっちに来て、思う人に会ったかと思うとその人はもう娑婆に行ったということ。又一苦労することか……」
 とぼんやり縛るる松の下、降り出す雪はますます激しく極楽の時の鐘がゴーンゴーンと聞こえる入相時いりあいどき、垣の外には康次郎。
康次郎「ああ言う声は確かにお里さん」
 と伸び上がって見ると、下にさがりし松の枝、これ幸いと枝に手を掛け、難なく塀を乗り越えて庭に飛び降り、急ぎお里の縄をほどき肩に背負いて、再び松に手を掛けて塀の表へ出たかと思う途端。
○「大変でございます。お嬢さんが棺の中でギャアと言い出しました。魔が差した魔が……」
 棺の中で息を吹き返したお里は「康次郎様はいらっしゃいますか」と言うので、主は小僧の松を日本橋伊勢町へ調べにやる。
 通夜に来ていた和尚が言うには「伊勢の国に文屋康秀ぶんやのやすひでという人があった。その人が死んで地獄に行ったが、向こうで調べてみて、これはまだ命数が尽きぬから娑婆に帰してよかろう、と言って帰された。ところが康秀の死骸というものは、火葬にしてしまって燃やしたから仕様がない。同月同日同刻に死んだ者はないかといって地獄をだんだん調べてみると、日向の国に松月朝友まつづきともふさという者がある。その松月朝友という人のたいを仮りて康秀が蘇生よみがえった。朝友ともふさの家では朝友が蘇生よみがえったと喜んでいると、その姿は朝友ではなく伊勢の国文屋康秀の姿。それで間もなく伊勢へ帰るといって何れかへ行ってしまったという怪躰けたいな話がある。戯作本ではあるがちょっと読んでいたから思い出した。そこで日向の国の松月朝友……小日向の松月堂、また向こうは伊勢の国の文屋康秀……伊勢町の文屋康次郎、ちょっと似ているじゃないか……」
 そこで使いに出した松が戻ってくる。
松「へーただいま行って参りました」
主「大きにご苦労ご苦労、どうでしたい」
松「イヤハヤ面白い話で、向こうに行ったらやっぱりこの騒ぎで大混雑ごっちゃかえしておりました」
和尚「幽霊同士で変な約束をしたとはこりゃ怪躰けたいな話じゃ。このくらい面白いことはない。これは余人よにんの手を待たず、坊主じゃけれどもワシが仲立ちをするから早く嫁におやんなさい」
主「和尚さん、チョロッカイ
(蛇足注:簡単、気安く)にそう仰るが、向こうの方でも都合があるといけませぬ」
和尚「イヤ幽霊同士の約束じゃ、アシ
(蛇足注:足と悪しをかけた)はあるまい」

 松の木に縛られるくだりは、歌舞伎にもあります新内清元の「明烏花濡衣」で花魁浦里を遣り手が責める場面の流用です。
 その場面から生き返るまで、圓喬の流れるような描写はそのまま引用しました。
 おわかりのように朝友ともふさは登場しますが、「あさとも」は一言も出て来ません。圓喬の速記でも「百花園」掲載時の演題には「あさとも」のふりがながありますが、本文は「ともふさ」です。後に復刻された時は演題のふりがなも「ともふさ」に訂正されておりました。
 最近では桃月庵白酒も「朝友(ともふさ)」としてあります。
 この噺は落語以ので変わったところでは、宝塚歌劇団星組により舞台公演されました。

 

 

 宝塚歌劇団は『朝友』の他に『地獄八景』や『死ぬなら今』から題材をちりばめ抱腹絶倒の落語ミュージカルに仕上げました。あたくしはDVDを持ってます。(^^)
 圓喬ではなく二代三遊亭圓橘(佐藤 三吉)
の速記(明治38年「文芸倶楽部」)ですが『朝友』のマクラに『死ぬなら今』を振っております。

 この噺、不勉強なあたくしがあれやこれや解説するよりも、民俗学者でもあった佛教大学教授の関山和夫が詳しく解説しておりますので、次回はそちらを紹介いたします。