1910年(明治43年)6月11日付、静岡民友新聞の紙面より

 

来る十五日より三遊落語研究会幹事小圓朝改め二代目圓朝、久々にて出席。得意の新古滑稽話及び人情ばなし等、一座大車輪にて開演すと云ふ。

 

  演目は『怪談牡丹灯籠』のほかに『革財布』(芝浜)『中村仲蔵』など、月を移した翌7月の浜松勝鬨亭では圓朝改名披露として口上と『美人の生埋』など掛けました。
 この小圓朝はかなりの素行不良でして、度々師匠圓朝に諫められました。師の死後勝手に圓馬を名乗って大阪に移り住んでいた二代圓馬(竹沢釜太郎)から苦情を貰って、慌てて小圓朝へと改名しました。そしてまたこの圓朝騒動です。当時圓右などからもさんざんに毒づかれたといいます。

  この小圓朝、しばらくは大人しくしていたようですが、1915年(大正4年)東京で人気が振るわず寂しい懐具合により、またもや圓朝騒動を引き起こします。8月30日付函館新聞掲載の竹内館の広告に次のようにあります。

 

三遊亭
補助 三遊亭圓朝
二代目 小圓朝一行
顔触れ 朝太 一朝 天齋 圓朝 圓坊 天心 五明樓国輔 二代目小圓朝

 

 自分の小圓朝を弟子に名乗らせ、自分は勝手に圓朝を襲名しちゃいました。この9年後、正式(?)に圓右が二代圓朝を襲名しますが、病床であったため一度も高座に上がる事なく生を閉じました。
 ちなみにこの偽圓朝の興行に同行した「朝太」ですが、後の五代古今亭志ん生です。こんな師匠を嫌がって、自分は圓喬の弟子だったと言い続けたのでしょうか? あるいは圓喬の前座名でもある朝太を貰い、小圓朝へ預けられたのでしょうか? 志ん生はこの偽圓朝について生涯口を閉ざしてました。二代小圓朝の息子でもある三代小圓朝に対して「偽圓朝の件は黙っていてやるから、俺がお前のおとっつあんの弟子だった事は黙っていねえな」(by 『二階ぞめき』)だったのかなぁ~??? (^^)

 実は圓喬にも偽圓喬がおりました。
 1891年(明治24年)7月、神戸又新日報の広告には次のようにあります。(蛇足意訳)

 先月一ト月に渡って大好評だった東京下りの三遊亭圓橘に代わって今月から若手売出し中の三遊亭圓喬が出るよ~。
 今から7,8年前に楠公社内の落語席で好評を博した圓好が、圓生の先名を受け継いで圓喬になったんだよ。
 連夜、柳影朝妻情話
(蛇足註:まだ紹介してません)というとっても面白い人情小説だから聞き逃す手はないよ~。

 一つ付け加えると、近頃関西で三遊亭圓喬を名乗っている輩が居るけど、ウチの席に出る圓喬とは同名異人だから間違えないようにね。

 ここにある同名異人の圓喬とは、四代圓生の弟子で、のちに全亭武生から六代朝寝坊むらくを襲名した落語のヘタな本名永瀬徳久のことです。
 この偽圓喬が立花家橘之助と駆け落ちするのはこの2年後になります。

 最近圓生襲名の話題があるようですが、小圓生とも呼べない芸ではとてもとても……。微圓生、矮圓生、未圓生、不圓生、稚圓生、拙圓生、劣圓生という芸名であればどうぞどうぞ好きなだけ襲名しなすっておくんなさい。

なんと「いらすとや」にあった圓朝のイラスト。噺家では圓朝だけです。