別題は『茗荷宿』『茗荷屋』と、どれも似(二)たり寄(四)ったりで六ったりな演題ですね(^^)
 三代小さんのそれと比較して四代橘家圓喬の『茗荷宿屋』は短かった、という伝聞だけが残されていて、圓喬の速記は存在しないものと思っておりました。ところが、あったのですよ速記が、国立国会図書館に! 以前調べた時は気づきませんでしたが、何と国会図書館の目録というか目次が間違っていて「三遊亭圓喬」と有るべきところ「三遊亭喬」と圓の字が抜けてました。今回は目次だけでなく、国会図書館にある落語速記の内容をできる限り(600冊ほど)調べたところ、いくつか圓喬の速記を発見することが出来ました。そのひとつがこの『茗荷宿屋』です。他の噺も順次お送りいたしますので、ちょっと
よそでは読めない圓喬の噺をお楽しみに~

 この『茗荷宿屋』の一般的なあらすじを記します。

 

 神奈川の寂れた宿屋、ある泊まり客が預けた百両に目がくらみ、何とかしてこの大金をせしめようと算段をする。
 そこで思いついたのが、食べると物忘れをするという茗荷。お客の料理には茗荷尽しを並べ、後は明くる朝の出立を待つばかり。
 案の定、客は預けた金を忘れて旅立って行った。
 しめしめ、と思っておりところへ件の客が戻ってきて、預けた百両を持って再び出て行く。
 がっかりした宿屋の主は、ほかにも何か忘れたものが有るだろうと言うと、女房が「夕べの旅籠代を払うのを忘れていった」

 

 他愛もない噺ですが、三遊亭圓朝も速記(文章)を残しています。圓朝の『茗荷』(ママ)は1,100文字ですから、口演時間にして4分ほどでしょうか? ごく短い小咄といったところですね。
 圓喬の『茗荷宿屋』は文字数3,500文字で時間はおよそ12分程度。寄席サイズでしょうか? 圓朝と圓喬はこの宿屋の名を明らかにしておりません。名無しのお宿です。
 圓喬の特徴を交えつつあらすじを記します。今村次郎編「滑稽玉手箱」1906年(明治39年)服部書店刊からです。

 

 強欲は無欲に似たり、という落語界隈では有名なことわざから入ります。
 当今(この高座当時明治39年)は交通が便利になりましたが、昔は東海道の親宿は品川で、
西京むこうは大津でげす。けれども宿屋は品川は繁盛いたしません。江戸を発って品川は近いので泊まる方はまずない。かといってあちらから御出でになる方は泊まらないで、もうここまで来れば江戸に入ります。宿屋にとっては品川は間の宿(江戸時代,旅人の休憩のために宿場と宿場の中間に設けられた宿)
 一方、神奈川の台
(高台で景色が良い)というと江戸を発っての泊まりに丁度いい。台下の宿屋の主は考えた。人間五十年として、二十五年は寝て暮らす、残りはわずか二十五年。産まれて十歳までは無茶苦茶で暮らす、残りは十五年。昼寝を五年差し引いて、病み患いを五年引き、居眠りを五年引くと人間わずか只、馬鹿馬鹿しいな。と無茶な算術で宿屋の主の心境を述べてます。
 この間も江戸へ買い出しに行った時、両国橋で涼んでいると屋形船へ芸者幇間たいこを揚げて遊んでいた人がいたが、あれも一生、俺のように宿屋をしてお客にヘイコラして湯に入れ飯を二度食わせ、わらじの世話から荷物の世話までして、並旅籠で二朱と四百、高がしれている。
 どうにかして大金を儲けたいが、利は元に有りという通り元手がなければ大儲けは出来ない。元で無しだと泥棒より他にない。ここは名にし負う名代の東海道、金のありそうな旅人が来れば、命が惜しければ金を出せと脅しても知れれば捕まり首が飛ぶ。何か良い方法はないかしらん。


 マクラから宿屋の主に悪心が芽生えるまでを滑らかに描写してます。そしてここで例の槃特はんどくさんの故事が入ります。今と少し違うのは理屈っぽい圓喬らしく、なぜ槃特さんが名乗らなければならないのかを説明しております。原文ママ、新字新仮名で引用します。

 

 この話はどういう所から出ましたものかというと、これは日本の事ではない。かのお釈迦様の十六羅漢のうちに槃特という。この方が大層疎忽そそっかしい方で、毎度お釈迦様のお弟子が托鉢をして歩く。彼方あちらの法と見えまして、布施をする人が、あなたのお名前はと名を聞くと、私は阿難、迦葉かしょう、目連と皆名前を名乗っていく。その日は二度そこへ貰いに行く事が出来ない。槃特さんもやはり托鉢に出掛ける。錫杖とか申します柄の長い杖を突いて、今戸焼の出来損ない見たような鐵鉢かなばちとかいう物を持って歩く。
「御出家さん、あなたのお名前は」
「ヘエ……」
 忘れてしまった。
 お釈迦様の前へ夕方帰ると、
「槃特、
施行せぎょうはあったか」
「ヘエ」
「施行はあったのか」
「ヘエ、私の名はなんと申します」
「また始まった。自分の名を忘れるとは愚か者、槃特だ」
「アッ槃特、思い出しました」
「思い出したのではない。教えたのだ」
「なるほどそうだ。槃特というは私でございますな。槃特、槃特」
 とその晩、一生懸命稽古をして。明くる朝になるとまた忘れてしまう。お釈迦様も仕舞いには愛想を尽かし、板へ槃特と書いて竹の先へ結びつけて。
「槃特、今日から施行に歩くのにこの札を担いで行き、もし名を忘れたらばこの札を突き出せ。突き出すのも忘れるだろうが、大概これを担いで歩けば人が見るだろう」
 と札を渡されて、それからこれを担いで托鉢をして歩いた。
 その忘れっぽい槃特が亡くなって、その墓の脇へ初めて生えた草を茗荷と名付けた。茗荷とは名を荷なうというところから付けた名で、またこれを槃特草とも申します。そこで茗荷を食べると物を忘れるというんだそうで、宿屋の亭主何を思ったか、裏の畑からコテコテ茗荷を採ってきて、台所へ置いて、サア晩から客が泊まると茗荷一品の料理だ。金を沢山持った客が来れば良い。


 この説明は細かすぎて今に伝わっておりません。ほぼ同時期(明治41年)に三代小さんの速記茗荷宿屋』もありますが、そちらは槃特のそのものが出てきません。明治43年の小さんの速記『茗荷屋』には槃特に由来する茗荷の説明がありますから、圓喬のそれを参考にしたと思われます。

 旅人が宿屋に預けるのは両掛の荷と大金百両ですが、師匠の圓朝はそれに莨入れを加えております。
 小さんは、宿屋の主が夢で旅人の大金を狙って包丁を突きつけたところで女房に起こされるという、今の柳家に伝わる描写があります。しかし色々入れ込みすぎて軽い噺のはずが文字で6,000文字を超えてます。高座時間でいうと20分くらいでしょうか。速記を読む限り、小さんの『茗荷宿屋』は少々冗長に感じます。

 夕の御膳が茗荷尽しだった旅人。朝に女中が持ってきた膳の描写が食い道楽(?)の圓喬らしいので引用します。

 

 御飯を食べて、味噌汁おつけの蓋を取ってスーッと吸うとプンという匂い、そらお出でなすった。これは茗荷の匂いだが、お平(蛇足註:平椀皿の料理のこと)は違うだろう。大概朝は宿屋のお平というと、八杯豆腐だがと、蓋を取って見ると、これも茗荷。猪口(蛇足註:本膳中の中付けの小器だが、さらに小形の杯をいう)が茗荷、香物こうこうも茗荷、また茗荷料理か。昨夕ゆうべから今朝へ掛けて茗荷ばかり食わせられる。上等の宿屋なら理屈もいえるが、もともと小さな商人あきんど旅籠。宿賃も安いので良い肴も付けられないと見える。無理もないことだと、思い遣って別に愚痴も言いません。


 さすが「食養雜誌」という食養誌に「食通瑣談」と題した随筆を書いただけのことはあります。この随筆は短いので次回紹介しましょう。

 

 食事を済ませた旅人は「どうもお世話様」と旅立つ。何か忘れてはいかなかったかと女房に聞くと、忘れたどころではない。両掛と大金を忘れていった。夫婦ホクホクと喜んでいるところへ、件の旅人が戻ってきた。
「どうも歩き具合が変だと思ったら、両掛がないことに気づいた」
 亭主は「オヤオヤ」と両掛を渡すと旅人は「どうもご厄介になりました」と再び行ってしまう。
 金は肌身離さず身につけていると思っているから気づくまい。と夫婦安心しているところへまた戻ってきた。
「これはお客様。度々何で?」
「何だじゃない。お前さんに預けた百両」
「オヤオヤ」
「どうか早く出しておくれ」
 預かった百両ろ渡すと「ハイさようなら」と三度旅人は行ってしまう。
 あれだけ茗荷を食わして、何か忘れていきそうなものじゃねえか……、アア、しまった。昨夕の
宿料はたごを忘れていった。

 

 師匠の圓朝は、両掛と百両の間に莨入れを挟みます。そして圓喬が「宿料はたご」とした言葉は「宿泊料はたごりょう」としてます。小さんは「旅籠賃」です。(^^)
 最後にお断りしておきますが、この槃特由来説は俗説ですから、あまり他で言わないようにしてくださいまし(^^)
 由来説で有力なのは、大陸から生姜(しょうが)とともに持ち込まれた際、香りの強いほうを「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだことから、これがのちに生姜(せのか→せんが→せうが→しょうが)茗荷(めのか→めんが→めうが→みょうが)に転訛したという説でしょうか。
「大門を 入る茗荷に 出る生姜」と誹風柳多留にあります。
 ちなみに茗荷を栽培しているのは世界広しといえども日本だけです。
 次回は圓喬全集のコラムをお送りします。

 

神奈川の台 東海道五拾三次之内 神奈川 台之景 歌川広重 天保4-5年(1833-34)

 圓朝の『茗荷』麻由美さんが朗読されてます。

 

その5『茗荷』 覚える落語 by 麻由美 /