1933年(昭和8年)の「評判落語全集 下巻(大日本雄弁会講談社)」から六代橘家圓蔵(後の六代三遊亭圓生)の『船徳』を紹介します。
 前回紹介した三つの速記(金三・三代小さん・五代圓生)と違えた箇所に重点を置いて、書きたいと思います。いわば後の六代圓生(便宜上この表記にいたします)が唯一残した『船徳』に、圓生はどんな磨き上げを行なったのか? それが黒門町の文楽へどんな形で伝播されたのか? できる限り書いてみたいと思います。

 

 親父は怒っているから私(徳兵衛のこと)を再び家に入れることはないだろう。覚悟を決めて船頭になる、と前3人が「番頭が言うには養子を取って家業を継がせる」という表現をアッサリ目に変えております。
 親方が女中の「たけ」に河岸にいる若い衆を呼びに行かせます。たけ「
熊さん、八さん、熊ンぱちさん」、今に伝わるクスグリが初めて登場しました。昭和8年(1933年)圓生満32歳の速記です。この表記を見た時感動さえしました。
 若い衆が女中の「燃えてるよ~」という言葉に騙されてフンドシを流される描写は小さん・五代圓生にはありませんが、圓遊と孫弟子の金三にはあります。どちらも「釜の下が燃えてるよ」なのですが、六代圓生は「
へっついの下が~」と始めて竈という言葉にしてます。これも現代に伝わってますね。
 若い衆が酔って喧嘩をしたのを「ぼうず」(軍鶏屋)とし、喧嘩の原因を勘定が足りなくなって店の番頭がグズグズ言ってので……と、より具体的にしてます。この辺の金が絡む描写は現代の「隣の船宿がとった天ぷらうどんを黙って食べて、お足がチャリ~ン」に活かされているように思いました。
 若旦那の徳兵衛が船頭になると聞いて若い衆は喜ぶのですが、「女の子は打っ遣っちゃおきませんぜ、音羽屋!」と音羽屋の掛け声を出したのも六代圓生が最初だと思います。
 「オウ、徳ヤッ、ご免なさい」はありますが、入れ墨の件は小さん同様切り捨てております。
一番驚いたのは例の当日、次の表現です。

丁度四万六千日お暑い盛りでございます。
速記にこの表現を見た時、口から心臓が飛び出しそうになりました。名前を伏せてこの速記を読んでもらうと、恐らく10人が10人とも「演者は黒門町」と答えるのではないか、それほど今に伝わる趣に溢れているのです。続けましょう。
徳さんは「この前みたように引っくり返すようなことはありません」と女将に言って客を怖がらせます。
これも六代圓生の速記が初めてです。
伸びたヒゲを剃るため髪結床へ行って客を待たせる。
小さん・五代圓生とも髪が乱れていたので……、という理由で髪結床へ行きましたが、六代圓生が始めてヒゲを持ち出したと思います。
力を入れても船が繋がっているので出ない。
「舫ってある」という表現は使ってません。
無事(?)船が出ると客が「棹は三年櫓は三月といって、棹を使うのは自慢だろうが櫓に変えたらどうだい」と催促。
これも今に伝わる表現ですね、
櫓に変えた途端、船が廻り怖がる客に向かって「ここはいつでも三度づつ廻ります
太った旦那、スミマセンが胴の間の方へ寄ってください。舵が取りにくくてしようがねえ。これだから素人は困る
船が揺れるので煙草盆が二人の間で行ったり来たりして煙草に火が付けられない
石垣へくっ付く船。コウモリ傘で石垣を付いてくれ。石垣に挟まるコウモリ傘。もう離れたから諦めなさい。哀れ買ったばかりのコウモリ傘。

蟹のような石垣好きや福引きで当たったという表現はありません。
引き潮で船が後戻りをするし、汗で前が見えないから大きな船が来たら避けておくんなさい。
あなた方は泳げますか? 水天宮様のお札を持ってますか?
引き潮で船底が付いてしまった徳さん、ここから上がっておくんなさい。
もう一人を負ぶって川に入り上がろうとする客。「俺たちは上がるから好いがあの船頭はどうするのだろう。オイ若い衆大丈夫かい」
船頭一人雇ってくださいまし


 いかがでしたでしょうか? 黒門町~現代に伝わる『船徳』そのままと言っても好いくらいですよね。
 ここで疑問が二つばかり生じた方もお出ででしょう。

  1. 六代圓生が黒門町の『船徳』をパクった。
  2. 黒門町、あるいは別の噺家の速記を六代橘家圓蔵(後の六代三遊亭圓生)として掲載した。


 1.の可能性は薄い、というか考えられません。圓喬全集の本編ではあえて触れませんでしたが、圓遊独自の工夫(クスグリ)を圓朝や圓喬が取り入れることはあったのでしょうか? 凡庸な噺家だったらまだしも、圓朝・圓喬・圓生がそんなことをするようには思えません。噺家としての志の問題です。
 2.はどうでしょう? 実は古い速記本は演者の記載が曖昧、故意に変えていることがあります。圓遊の速記を圓朝の名で掲載したりということがままあります。先日も圓喬の『心眼』の速記を発見したのですが、よくよく読むと(ようよく読まなくても)圓朝の『心眼』と一字一句同じでした。その時々で売れやすい演者と偽って発行することはあったようです。ただし、経験上どちらの演者も亡くなっている場合ばかりです圓朝の『湯屋番』(実は鼻の圓遊の速記)は圓遊死後の明治41年出版ですし、圓喬の『心眼』は圓喬死後の大正6年です。どちらも出版社は春江堂になります。


 また1、2どちらの場合も圓生や文楽が文句を言いそうですが、しんば(小金馬)黙っていたにせよ、取り巻き特に安藤鶴夫あたりは声を荒げそうに思えます。
 この速記は1954年(昭和29年)に同じ大日本雄弁会講談社から出た「落語全集 月の巻」に再掲されております。



 二人ともバリバリの現役、後の講談社からこんな嘘の速記が出たならば、騒いだと思うのです。
 状況証拠しかありませんが、六代圓蔵(後の六代圓生)の速記で間違いないと考えます。

 黒門町の文楽がこれら速記や高座を見聞きした『船徳』をどう刈り込み、洗い上げたのか? 圓生の速記から十五年後、1949年(昭和24年)文芸誌「苦楽」(苦楽社)五月号に掲載された安藤鶴夫の「落語観賞」から八代桂文楽(並河 益義)の『船徳』です。

 

 

この家で船頭になれなければ、ほかへ行ってでもなるという若旦那の徳兵衛。特に両親が養子を取って云々はありません。
若い者を集めて披露目をするので親方が立て替えとくれ
女中の竹が若い衆を呼びに行く「熊さアん、八ツアん、熊ツ八ツアん」、ここは圓生の「熊ン八さ~ん(くまんぱちさ~ん)」ではないです。
竈の下が燃えていてフンドシを流されたクスグリは従来通りです。
船をいたずらして舳先を打っ欠いた。新造ではなくただ船としてます。
坊主へ行って隣のモンに喧嘩ふっかけて皿三枚に徳利二本。従来通りです。
いずれも親方は「ちっとも知らなかった」
徳兵衛が船頭になることを若い衆へ知らせると、若い衆は「
第一でえいち女の子なんざアはうっちゃっちゃア置かないてえことさ。(間を作り)へッ、ええ……(隙を窺って遠慮がちに)音羽屋アッ」圓生の音羽屋をさらに面白く変えてますね。
お~い、てなことを言います。徳やア~いてえ、ご免なさい。
四万六千日、お暑い盛りでございます。
扇子を傘に見立てて、顔のあたりで上へ立て、日傘を差している仕草で暑さを表現してます。
圓生と同じ、「この前みたように引っくり返すようなことはありません」と女将に言って客を怖がらせます。
客を待たせてヒゲをあたる。圓生を含めそれ以前の髪結床は出てきません。
船が舫ってあって出ない
客が「棹は三年櫓は三月くらいは心得てますよ。いい加減櫓と変えたらどうだい圓生の「棹は三年櫓は三月といって、棹を使うのは自慢だろうが櫓に変えたらどうだい」という表現を変えてます。
お馴染みの発言「ここはいつも三度づつ廻ります」
太った旦那、スミマセンが胴の間の方へ寄ってください。舵が取りにくくてしようがねえ。これだから素人は困る圓生と同じです。
ここで登場、竹屋のオジさん。「竹屋のオジさ~ん、お客をね、大桟橋までおくっていきやすから」竹屋「徳さん一人か~い。大丈夫かアい」四代橘家圓喬の速記に出てきた日野屋のオジさんと同じセリフです
石垣にくっ付く蟹みたいな船
哀れ福引きで当たったコウモリ傘は石垣の餌食に。圓生は「買ったばかりのコウモリ傘」としてました
煙草盆を間にお辞儀をしあう二人の客。お互いに失礼がなくて好い。これは三代小さんの煙草盆のクスグリを膨らませました。
汗で前が見えないから大きな船が来たら避けておくんなさい。
船頭はこれ以上漕げないから、もう一人の客を負ぶって川に入る。大きな尻だね。
 お客様、お上がりんなりましたら船頭一人雇ってくださいまし

 

 

 

 黒門町は圓遊・金三・小さん・五代圓生・後の六代圓生の速記から(あるいは高座から)取捨選択して時代に耐えうる噺に再構築したように思えます。
 この速記から九年後の1958年(昭和33年)の速記ではどう変わったでしょうか? 変更点のみを抜き出します。昭和33年8月30日圓朝祭の口演速記です。

 

 棹は三年櫓は三月、なんてえことをいいますが、なかなかむずかしいもんで、このくらいおせえたからいいだろう、当人もこれくらいおぼえたら一人前てんですが、自分で一人前てえのァ当てになりません。(原文ママ)
この後に、

四万六千日、お暑い盛りでございます。
これが来ます。

 

 これだけです。もちろん言葉の端々に多少の違いはありますが、これ以外に削った箇所も付け加えた箇所もありません。さすが黒門町と言ったところでしょうか。
かい  ここにラジオ番組で桂文楽が『船徳』を掛け終えた後、アナウンサーとの芸談音源があります。
 この中で黒門町はこの『船徳』は震災前から高座に掛けていたと発言しております。震災とは、もちろん東日本ではなく (^^)1923年(大正12年)の関東大震災のことです。そしてどうやっても巧くいかないので、一時止していたとも語っております。5分43秒のインタビューになります。お時間が許せばお聞きくださいまし

 

 

 このときの『船徳』の音源もありますので、よろしかったら。こちらは20分45秒になります。1956年(昭和31年)7月1日の録音です。黒門町がポリープの手術前の唯一の『船徳』音源になります。
 

 

 二回に分けて長々と書いてきましたが、何か結論らしき事を書かないと気が済まない性格なので……。

  それまで初代古今亭志ん生作の人情噺『お初徳兵衛』の前編にあったクスグリに時流を取り入れ一席の落とし噺にしたのが鼻の圓遊でした。そこから時流を刈り込み元に戻したのが三代小さんや五代圓生です。さらに六代橘家圓蔵(後の六代圓生)が今に残る、熊ンパチさ~んやお暑い盛りを入れ、入れ墨など時代にそぐわないクスグリを刈りました。それらを黒門町の桂文楽が時間を掛けて練り上げ、不動の落とし噺とした。
 なんとも『船徳』の完成課程のようなおいしいとこ取りの結論になりました(^^)
 八丁荒らしと呼ばれた初代志ん生の『お初徳兵衛』にも多くのクスグリが存在したことがハッキリしました。鼻の圓遊の功績は、今となっては消え失せた時流のクスグリを入れたことではなく、一席の落とし噺としたこと、その一点にのみあるでしょう。
 そして、圓生・文楽の功績の方が圓遊のそれを上回ると言っては言い過ぎでしょうか?
 圓喬の速記がなければ黒門町の「竹屋のオジさ~ん」という稀代のクスグリが生まれなかったと思うのです。

 次は圓喬全集の本編に戻りまして『お初徳兵衛』の(下)をお届けする予定です。かなり長い人情噺なので分けるかもしれません。