憂国の雑誌「動向」昭和42年(1967年)1月号に「圓喬と泥舟先生」と題した寄稿文(編集部による東宝名人会の楽屋でのインタビューです)が8ページにわたり掲載され、半分の4ページで圓喬について語っております。

 

 

 冒頭編集記者の志ん生の紹介文があるので、抜き書きします。
 

 古今亭志ん生(本名美濃部孝蔵)師匠は、数え年20才で橘家円喬の門に入り、師の歿後は大正元年から三遊亭小円朝、さらに同11年より四代目古今亭志ん生に師事し、昭和14年に五代目古今亭志ん生を襲名したわが国落語会の長老。(原文ママ)


 志ん生の最初の師匠が圓喬であったかどうか? ここでは詳しく触れません。まあ、素行が悪かった二代三遊亭小圓朝よりは終生敬愛し続けた圓喬の弟子でいたかったのかもしれません。

 本文は最初の見出し「マズイッ」から始まります。
 この逸話は多く書かれているのでご案内の方もいらっしゃると思います。簡単に要約しますね。

 

 明治の人で感銘を受け今でも心に残っているのはあたしの師匠の圓喬師匠だ。
 師匠が真打ちになって間もない頃『牡丹灯籠』を演っていて、忠僕の孝助が宮野辺源次郎を鎗で突き殺す場面で、鎗を持って突こうとした刹那、客の中に「マズイッ」といった人がいた。そんなことを言われたので圓喬師匠はなんかトチッちゃった。そいでへんてこりんになってハネちゃった。
 後で師匠は、その年取ったヒゲを生やしたおじいさんのところへ行って、
「まことにすみませんが、あなたは今マズイッとおっしゃったけれど、私のどんなところがマズイのでしょうか。お教え願えませんか」
「イヤ師匠、勘弁しておくれよ。御前さんのここんところは実にうまい。孝助があの鎗で突くところは心底うまかった。ただあれじゃ人は突けない。芸としちゃ実にうまいが、人は突けない。だからマズイって言ったんで勘弁してくれ」
 と言う。そこで師匠が名前を尋ねると、高橋泥舟だという。鎗の指南で本郷の大根畑に屋敷がある、勝海舟、山岡鉄舟と並ぶ「幕末の三舟」のひとり。
 師匠はどんなことでも好いからお教え願いたいと頼むと、泥舟は「おいでなさい」と圓喬師匠に鎗を教えた。
 それからは孝助が鎗をこうするところが一番うまかった。それは師匠の圓朝も圓喬のような芸はやれない、と言ったってくらいです。


 この逸話は有名で、昨年亡くなった漫画家古谷三敏の代表作ともいえる「寄席芸人伝」の第一話「リアリズムの左楽」の題材にもなっております。
 志ん生は圓喬の芸と泥舟について次のようにまとめております。

 

 あまりに圓喬師匠の芸がうまいから、芸ではなく本当に突くのかと思われたんでマズイッて言ったんだね。明治の三舟と言われた泥舟さんもまた芸をよく見ていたんだね。これは師匠と泥舟さんの心が一つになってたんだね。


 志ん生は圓喬のことを本当に尊敬していたのが分かりますね。
 圓喬の速記ですが『怪談牡丹灯籠』のうち、「お札はがし」「栗橋宿」は残されていますが、間に挟まれた「孝助の鎗」がありません。まさに志ん生が語った場面なのですが、残念です。
 志ん生は最後に圓喬について次のように結びました。

 

 圓喬師匠は打ち出しを打たせない人でした。ずーずーと話をしていて、ストーンと話を切る。そうするとお客はわかる、黙って立って帰る。今打ち出しを打たないで話のできる噺家は一人もいないね。後にも先にも、圓喬師匠ただ人一人だ。
打ち出し
寄席の終演で客が帰る時に打つ太鼓。ハネ太鼓、追い出し、ともいう
 その時分に橘家に通ってくるお客に本所の深川の人がいたが、ある時ひどい嵐になってしまって、それでもやって来た。帰る時両国橋まで来ると、ひどい台風で前にも後ろにも進めない。そいで、橋の欄干につかまって、「圓喬ていう奴は憎い野郎だ。俺をこんな目にあわせやがって」といった話がある

 

  両国橋の話も有名ですね。打ち出しを打たせないことがどれほど凄いのか? あるいはまったく凄くなのか? あたくしは噺家でもなければカモシカでもないので分かりません(^^)

 ここに紹介した以外にも志ん生はマクラに師匠(?)圓喬の事を語っております。いずれ折を見て紹介いたします。

 次回はこの続きとも言えるコラム その2としまして、六代三遊亭圓生とも親好のあった勝見豊次が圓喬の芸について、そして圓喬の『牡丹灯籠』について解説してますので、そちらを紹介いたします。圓生五十代の『牡丹灯籠』も登場します。