憂国の雑誌「動向」昭和42年(1967年)1月号に「圓喬と泥舟先生」と題した寄稿文(編集部による東宝名人会の楽屋でのインタビューです)が8ページにわたり掲載され、半分の4ページで圓喬について語っております。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220712/14/tachibanaya-dasoku/20/b2/p/o0655056815145732083.png?caw=800)
冒頭編集記者の志ん生の紹介文があるので、抜き書きします。
志ん生の最初の師匠が圓喬であったかどうか? ここでは詳しく触れません。まあ、素行が悪かった二代三遊亭小圓朝よりは終生敬愛し続けた圓喬の弟子でいたかったのかもしれません。
本文は最初の見出し「マズイッ」から始まります。
この逸話は多く書かれているのでご案内の方もいらっしゃると思います。簡単に要約しますね。
この逸話は有名で、昨年亡くなった漫画家古谷三敏の代表作ともいえる「寄席芸人伝」の第一話「リアリズムの左楽」の題材にもなっております。
志ん生は圓喬の芸と泥舟について次のようにまとめております。
志ん生は圓喬のことを本当に尊敬していたのが分かりますね。
圓喬の速記ですが『怪談牡丹灯籠』のうち、「お札はがし」と「栗橋宿」は残されていますが、間に挟まれた「孝助の鎗」がありません。まさに志ん生が語った場面なのですが、残念です。
志ん生は最後に圓喬について次のように結びました。
両国橋の話も有名ですね。打ち出しを打たせないことがどれほど凄いのか? あるいはまったく凄くなのか? あたくしは噺家でもなければカモシカでもないので分かりません(^^)
ここに紹介した以外にも志ん生はマクラに師匠(?)圓喬の事を語っております。いずれ折を見て紹介いたします。
次回はこの続きとも言えるコラム その2としまして、六代三遊亭圓生とも親好のあった勝見豊次が圓喬の芸について、そして圓喬の『牡丹灯籠』について解説してますので、そちらを紹介いたします。圓生五十代の『牡丹灯籠』も登場します。