「推し活」はなぜこれほど経済を動かすのか。成熟社会における消費の変化を背景に、「推し」が持つ意味や価値を解説。平安時代から続く日本の応援文化の歴史にも触れながら、「推し」が生き方の証となる理由を紐解きます。

 


おはようございます。立花です。

先週も企業新入社員研修雄勝受入がありました。
最終日前日は、発表課題に全力で取り組み、同期とともに主体的に
翌朝まで議論を交わす姿もあり、同期と共に出し切る体験も
良き思い出になっているようです。。
4月からの企業/団体研修はまだ始まったばかりです。
社員の皆さんの気づきと成長に貢献できるよう
体調管理を万全にして受入を進めてゆきたいと思います。
並行して、全国各地で新入社員講話も続いています。
新入社員研修講話に限らず、登壇するすべての講演や研修は、
公益社団法人MORIUMIUSへの寄付講和としています。


さて、
最近、「推し」という言葉を耳にしない日はないほど、日常に溶け込んでいるように思います。
好きなアーティストやキャラクター、俳優、スポーツ選手、あるいは地域や店主まで。
対象はさまざまですが、「推し」を持つことが、ひとつの生き方のように語られる時代になりました。

興味深いのは、この「推し」が単なる趣味の領域を超え、経済に大きな影響を与えているという事実です。
モノやサービスが十分に行き渡った成熟社会において、なぜ人はここまで熱量高く「推し」にお金と時間を使うのか。
その背景には、いくつかの本質的な変化があるように感じています。

まず一つは、「機能価値」から「意味価値」へのシフトです。
かつては、性能が良い、価格が安い、便利である、
といった合理的な価値が消費の中心でした。
しかし、今は違います。
同じ品質の商品が並ぶ中で、
人は
「誰がつくったのか」
「どんな想いが込められているのか」
「自分はその物語に共感できるのか」
を重視するようになっています。

「推し」とは、言い換えれば、「意味を背負った存在」です。
その人や対象のストーリーや努力、価値観に共感し、「応援したい」という気持ちが生まれる。
この“応援したい”という感情が、消費を単なる支出から「参加」へと変えていきます。

もう一つは、「自己表現」としての消費です。
SNSの普及により、人は自分の価値観や世界観を外に向けて発信するようになりました。
何を買うか以上に、「何を応援しているか」が、その人のアイデンティティを表す時代です。

「自分はこれが好きだ」
「この人を応援している」
その表明が、
自分自身の存在証明にもなっている。

だからこそ、「推し活」は単なる娯楽ではなく、
自分の生き方そのものに近づいていくだけでなく、
その人が
「どうありたいか」
「どのような生き方をしたいか」
という、生きた証にもなっているのだと思います。

では、この現象は現代特有のものなのでしょうか。
少し調べたところ、実は、日本の歴史をさかのぼると、
その原型は古くから存在しています。

例えば平安時代。
貴族たちは和歌や物語を通じて、特定の歌人や物語の作者に強く心を寄せていました。
『源氏物語』の登場人物に感情移入し、物語の展開に一喜一憂する様子は、
まさに現代の「推し活」に近いものがあります。

また、江戸時代には歌舞伎役者や浮世絵師が「スター」として熱狂的に支持されていました。
贔屓(ひいき)という言葉は、この時代から広まり、特定の役者を応援する文化が根付いていきます。
芝居小屋に通い詰め、同じ演目を何度も観る。
役者の名前が入ったグッズを集める。
これもまた、現代の「推し活」と構造的には変わりません。

つまり、
「誰かを応援したい」
「その存在に自分の感情を重ねたい」
という欲求は、時代を超えて人の中にある普遍的なものだと言えます。

では、なぜ今、それがこれほどまでに大きな経済インパクトを生んでいるのか。

それは、
「共感が可視化され、連鎖する時代」になったからだと思うのです。
SNSによって、個人の「好き」が瞬時に共有され、共鳴し、コミュニティを形成する。
一人の熱量が、次の誰かの熱量を生み、波のように広がっていく。

韓国のアイドルグループの世界的な成功も、その象徴のひとつでしょう。
音楽そのものの魅力に加え、メンバーのストーリーや価値観が世界中の人々の共感を呼び、
「応援すること」そのものが、文化として広がっていきました。

ここで重要なのは、「推し」は一方通行ではないということです。
応援する側も、される側も、相互に影響し合いながら関係性を築いていく。
その関係性の中で、人は元気をもらい、明日への活力を得ているのだと思います。

自分自身を振り返っても、「応援したい」と思える存在があるとき、人は自然と前向きになります。
誰かの挑戦や努力に触れることで、自分ももう少し頑張ろうと思える。
その連鎖が、個人の内側から社会を少しずつ動かしていく。

成熟社会においては、
「足りないもの」を埋めることよりも、
「意味を見出すこと」の方が重要になります。
「推し活」は、その象徴的な行動なのかもしれません。

何を持っているかではなく、誰を応援しているか。
どれだけ消費したかではなく、どれだけ心を寄せて動かされたか、自分自身が
主体的にかかわっているか。

そうした価値観の変化の先に、
これからの経済や社会の姿があるように感じています。

そしてもう一つ。
「推し」は、必ずしも遠い存在である必要はありません。
身近な人、地域で挑戦している人、小さな店を営む人。
そうした存在を「推す」こともまた、立派な推し活です。

誰かを応援することが、その人の力になり、
やがて地域や社会の力になっていく。
そう考えると、「推し活」は単なる消費行動ではなく、
共助や共創の入り口でもあるのではないかと思います。

どんな時代であっても、人は人に心を動かされます。
その当たり前の事実が、いま「推し」という言葉を通じて、
改めて可視化されているのかもしれません。

自分は、誰を応援したいのか。
なぜ、その人なのか。

その問いの先に、自分自身の価値観や、
生き方のヒントが隠れているように感じています。