淋しきときは淋しき色に蕎麦の花 加藤瑠璃子
一昔前までは蕎麦屋の屋号といえば、
庵をつける店が多かったものです。
『道行庵草をなめたい顔ばかり』(柳多留拾遺1)
蛇足ですが、草は蛇含草(とろかし草)で、
落語「そば清・そばの羽織」で知られています。
「蕎麦好きの旅商人の清兵衛。
信州へ出かけた帰りの山道で、
大きなうわばみが人間をのみこむのを見てしまう。
苦しがるうわばみが、岩陰に生えている赤い草をなめると、
脹れあがった腹が忽ち小さくなってしまった…」
食べ物をこなす草と思い江戸へ持ち帰り、
蕎麦食いの賭で五十束食べて苦しくなり、
障子の外へ出て例の草をなめます。
「あまり静かなので、(さては食べられなくなって逃げ出したかと)
障子をあけると、蕎麦が羽織を着て坐っていた」
(落語読本 矢野誠一 文集文庫)
道行庵の庵主は信州生まれで蕎麦打ちが上手く、
始めは檀家に出していたといいます。
当時では珍しい白い蕎麦で、
つけ汁も鰹節を使わない精進出汁で、
辛味の大根の薬味で喜ばれ評判になり、
営業を始めたといいます。
俗事百工起起源(宮川政運 慶応元年 1865年)巻下に、
『蟹甲雑記に、江戸浅草日輪寺遊称院といふ浄土宗の寺あり、
其の塔頭に道行庵と云えるあり。
この寺にて蕎麦切りを製するに味わい他に優れ
道行庵の蕎麦とて人々来たりて頼みしと云ふ。
今も猶そばを製するよし。
これより所々にて手打の生蕎麦を商う者、
屋号を庵と呼ぶ事になりぬ。
近き事なれども、その物の流行よりその名の始まりとはなりぬ』
道行庵はあまりの繁盛に茶屋の感さえあり、
やがて本寺より禁止されたといいます。