石垢になほ食ひ入るや淵の鮎 去来
古事記(和銅5年 712年)中巻神功皇后の新羅征伐の項に、
『亦筑紫の縦縣の玉島里に到り坐して、
其の河の邉に御食したまひし時、四月上旬に當り」き。
爾に其の河中の磯に坐して、御裳の糸を抜き取り
飯粒を餌に為て、其の河の年魚(アユ)を釣りたまひき。
故、四月の上旬の時、女人、裳の糸を抜き、粒を餌に為て
年魚を釣ること、今に絶えず』
とあり、婦女が鮎を釣る風習が残っているとあります。
神功皇后は仲哀天皇(14代)の后で、
天皇が陣没した後、神託により新羅を討ったといわれています。
肥前国風土記(天平4年以降編纂 732年)松浦郡の項に、
『玉嶋の小河の側に進食したまひき、
ここに、皇后、針を勾げて鈎と為し、飯粒を餌と為し、
裳の絲を緡と為して、河中の石に登りて、
鈎を捧げて祝ひたまひしく、
「朕、新羅を征伐ちて、彼が財寶を求がまく欲ふ。
其の事、功成らむのは、細鱗の魚(アユ)、朕が釣緡を吞め」
とのりたまひて、既にして鈎を投げたまふに、
片時にして、果たして其の魚を得たまひき』
この時の鮎釣りは占いです。
男勝りの皇后と伝えられていますが迷いがあったのでしょうか。
『此の国の婦女は、猛月四月のは常に針を以ちて年魚を釣る。
男夫は釣ると雖も、獲ること能はず』
こちらも風習を伝えています。
風土記には鮎の記載が多くあり、太平洋側でも日本海側でも
取れたようです。
『久慈の河に會ふ。多く年魚を取る。大きさ腕のごとし』
常陸国風土記・久慈郡(養老年間 717年~ 茨城県)
『或は土體豊沃えて、草木叢れ生きひたり。
則ち、年魚・鮭・麻須・伊具比・魴・鱧等の類ありて、
潭淵に雙び泳げり』
出雲国風土記・出雲郡(天平5年 733年 島根県)
シーズンにより、同じ河川を鮎・鮭・鱒が遡上していたのでしょうか。
『即ち球磨川通り、會ふて一つの川となり、名を日田川といふ。
年魚、多(サワ)にあり』
豊後国風土記・日田郡(天平4年~ 732年 大分県)
『天皇、戀悲しみて、誓ひたまひしく。
「此の川の物を食はじ」とのりたまひき。
此に由りて、その川の年魚は、御贄に進らず』
播磨国風土記・賀古郡(和銅6年~ 713年)
延喜式(延喜5年~ 905年)巻三九・内膳司に、
鮨年魚・塩塗年魚・煮塩年魚・火干年魚・押年魚・内子鮨年魚・等を、
貢進するよう規定されているとのことです。