鯨汁熱き啜るや外吹雪く 大石暁石
筆拍子(浜松謌国 文化5年以後 1808年)によれば、
『大坂の市中に、例年正月元日には、
魚商人初売りと名付けて、
おのが得意方へ鯨を持ち行く事、
もっとも成る売始めなり。
鯨といへる魚は、大きく不吉成る事嫌う故、
その年中の不吉を除く為に、
毎年元日鯨を喰して祝儀にせよと、
如何成る人歟思ひけん』
とあり、大阪では主に正月に
食べる風習がありました。
『江戸中で五六匹喰ふ十三日』(万句合 安永7年)
江戸では例年十二月十三日に、
武家の商家も煤払いの大掃除をしました。
『鯨売りなじみと見えてとっつかまり』(万句合 安永4年)
掃除がが終わると、
その家の誰かをつまえて胴上げをしました。
その後に手伝の出入りの職人は、
祝儀や手拭をもらいその後に
酒肴が振舞われました。
その中に決まって鯨汁がありました。
『魚偏に江の字鯨と書かせたい』(万句合 宝暦2年)
守貞謾稿(喜田川守貞 嘉永6年 1853年)巻之五に、
『鰌汁・鯨汁ともに一椀十六文、鰌鍋四十八文也』
とあり、泥鰌を商う店で鯨汁も出してあり、
庶民の手頃な食べ物でした。
譚海(津村正恭 安永年間~ 1772年)巻九に、
『肥前平戸の鯨名品なり。
毎年毎年百三四拾喉ほどづつ猟し得るなり』
と平戸の鯨を名品としていますが、
雲錦随筆(暁鐘成 文久2年 1862年)によれば、
『上品土佐紀州、其外九州辺のもの製すぐれずという』
とあります。
勇魚取絵詞(小山田与清跋 文政12年 1829年)には、
『廻り太く肉油多く味美にして上品なり。
これを本魚と称し、他の鯨は雑物といへり』
と背美鯨(セミクジラ)を第一としています。
江戸の十七世紀の初頭には、
江戸浦迄鯨が入ってきて
汐をを噴き上げるさまは
塩屋で焼く煙か思えたほどといいますから、
少し大袈裟としても
この頃すでに乱獲気味だったのでしょうか。