まないたに小判投げけり夷講  其角


恵比寿神は神無月に出雲に集まる神の

留守を預かる神といわれています。


本来は漁業航海の神様として信仰されいましたが、

いつしか商売繁盛の神として、

商家だけでなく農村でも豊作の神として

信仰されるようになりました。


守貞漫稿(喜田川守貞 嘉永6年 1853年)

巻之二十六 春時に、

『正月十日 大坂南今宮村戎社詣で

今日を俗に十日恵比寿と云ふ…


江戸および諸国にては、

十月二十日を戎講と号し、

諸国もっぱらこれを祭る。


大坂も十月二十日を祭るといへども、

呉服店を専らとして、その他は専ら今日、

この御神を祭り、また当社に郡詣す』


と十月二十日が定着します。


『十月二十日 今日 京阪にては誓文払と云ふ。

江戸にて、恵比寿講と云ふ。』

(守貞漫稿 巻之二十七 夏冬)


日次紀事(貞亨2年 1685年)に、

『四条京極冠者殿社参詣 俗に云ふ、

この神、偽盟の罪を免れしむと、


ゆゑに商売この社に詣でて、欺売の罪を祓う。

ゆゑに今日の参詣を誓文祓と云ふ。


しかれども、この社、何の神か詳らかにせず』


とあり、京阪の誓文祓いは、

恵比寿祭りと異なるようです。


卯花園慢録(石上宜続 文化6年 1809年)に、

『十二月十七・十八日、浅草雑器市とて、

人々正月の用意物を商ふ。


其の中に恵比寿・大黒を彫刻して、

いくらともなく店に出して商ふなり』

 

江戸も正月恵比寿ともとれなくはありませんが、

多くは十月二十日に定着しました。


飛鳥川(柴山盛方 文化7年 1810年)には、

『大伝馬町三町共に、えびす講の夜、

肴其の外品々市立つといふ。


近所の事ながら一両年以来、

年々牛の年(文化7年)始めて見に遣し候。

殊の外賑わふといふ』


とあり、小宮、神棚、三宝、鯛など、

翌日の恵比寿講に必要な物を売りました。


一夜限りの夜市ですが、

べったら漬も売られておりべったら市とも、

腐市とも呼ばれ賑わったようです。