川蓼や糺の茶屋が一夜鮓  紫暁


早鮨に人気が出ますと、

屋台でも売られるようになります。

こちらは少し高く一個六文から八文とあり

主に立ち食いです。


東都名所高輪廿六夜待遊興之図

(江戸物売図聚 三谷一馬 立風書房)の写しには、

屋根付きの屋台の中に木箱に並べられており、

一人の男が手で摘まもうとしています。


「寿し」の字が見えこの頃すでに使用していました。


『自慢まぜ嬶手伝はす辻鮓屋』(後の栞)


屋台は人通りの多い往来や辻で

他の食べ物屋と一緒に店を並べていました。


いつの時代も主人の自慢話には辟易します。


鮨屋といえば煎茶ですが屋台でも、

嘉永(1845年~1854年)の頃から

出すようになりました。


店構えの店も繁盛し、

松がずしや与兵衛鮨ばかりでなく、


『元旦の翁につめる人のすし』(江戸古川柳)


『さあらば土産にまいらせう翁鮓』(江戸古川柳)


と川柳も新しい店が読み込まれるようになります。


『留場から来るすし鯛と海老ばかり』(江戸古川柳)

と歌舞伎見物などで贅沢さ華美を増しますが、

花街も同じです。


『花やかに店だしらしい郭鮓屋』(江戸古川柳)


申子夜話(松浦静山 初巻文政4年(1821年)巻十八に、

『松鮓と呼ぶ新制あり、松とは配る人の名なり、

この鮓の価、殊に貴くその量五寸の器に二重に盛りて、

橢金三円(三両に換ふとぞ』


とあり、鮨が出来ると試食して

気に入らないと捨ててしまう、

こういう贅沢な物が流行するようでは、


『今に行なはるもるも、また世風を観るべし』

と嘆いています。


これは明らかに行き過ぎです。


守貞漫稿(喜多川守貞 嘉永6年 1853年)によれば、

天保の改革の時、

高価の鮨を売る者二百余人を捕えて、

手鎖の刑に処しています。


おかげでその後は四文八文の鮨になったが、

この頃また二・三十文になり始めてと、

やはり嘆いています。