蓼の葉も紅葉しにけり一夜鮓  一茶


市隠月令(文化の頃 1804年~)に、

『正月二五日 此の日夕方より

鮨売り卵売りの声いとめでたし』


正月早々から豆絞りの手拭を吉原かぶりにして、

特に遊里に出入りした鮨売りは、

粋な姿で売り歩いたといいます。


歌川広重の「四季人物」の図会には

十箱程重ね肩に担っています。

蓋の上に紅木綿をかけてあります。


問屋が売り子を出す仕出し鮨で、

始めの頃はこはだの鮨が一個四文です。


『あじのすふかはだのすふとにぎやかさ』(万句合 明和8年)


『鮓の飯小はだの夜具に笹布団』(柳多留118)


当時江戸では鮨といえばコハダをさすほど

人気がありました。


『すしやァー こはだのすしー」と

売り歩いたといいます。


こはだの他には、鳥貝の鮨が一箱四十八文。

こけら鮨が六十文です。


やがて早鮓が流行し始めますと、

箱の中は握り鮨にかわります。


のり巻、鉄砲、おぼろ、蛤むきみ、

こはだ、きりするめの七種類の鮨を

二十四個ずつ入れ担い売り歩きました。


一切れ四文もするこはだ鮨を

江戸庶民は口にする事が出来たのでしょうか。


『すし売りをまねる禿は御気入り』(万句合 宝暦12年)


『こはだの鮓をもぎ取て遣手ぶち』(川傍柳3)


『すしの箱四五枚入れるつりのふね』(万句合 安永5年)


主に華街周辺を売り歩いたのではと思います。