食積に菜羹熱くはこばれぬ 麦南
主婦が一年で最も忙しいのが年の暮れで、
その上に正月三が日はスーパーも休みも多いので、
食材の仕入れも大変です。
中にはお節料理の手作りにこだわり、
五万米や黒豆を焚く家もあり、
仕事は増える一方です。
その割には子供たちには
あまり喜べられないようです。
子供たちが待っているのは
栗金団であり、伊達巻であり、羊羹です。
ヨウカンは羊に羹と書きます。
羹は広辞苑では、『熱物(アツモノ)菜・肉などを
入れて作った熱い吸物』 とあります。
渡来したのは平安時代といわれますが、
現在の和菓子の姿、味と異なります。
包丁聞書(室町時代)に、
『惣じて羹に四十八わんの拵え様ありといへども
多くはその形により名ありと言へり』
とあり、雉羹・白魚羹・猪羹等記した中に
羊羹の名も見えます。
中国では鳥獣魚貝類の肉や肝を
使用したといわれますが、
日本へ渡って来た当時は
肉食を忌み嫌う禅宗文化の花開く頃で、
精進料理に取り入れるのに
苦労したと思われます、
その中で生まれたのが羊羹もどきで、
小豆・山の芋・小麦粉・砂糖・葛を練り上げて、
羊の羹に似せて蒸し上げたといわれます。
羊羹でなく本来は羊肝という説もあります。
嬉遊笑覧(喜多村信節 文政13年 1830年)は、
『もとは魚獣の肉を用ひしを、
僧家には是を除き製法をかへて
又ここの人の口にかなふやうになし、
又は其物の形色の似たるによりて、
名ある物もあるべし。
後には名のみ同じくて物いたくかはれるもの有とみゆ。
今の羊羹など是なり』
とその辺りの事にふれています。
練羊羹が最初に見えるのは
天正十七年(1889年)
京都伏見の駿河屋岡本善右衛門が、
小豆・砂糖・寒天で作ったといわれます。
同じ京都の虎屋では、
元禄八年(1695年)に記録があるといわれますから
錬羊羹は茶道の盛んな京都生まれかもしれません。
江戸では寛政(1789年~1801年)の頃、
喜太郎羊羹が評判だったといいます。