蜜柑の香しみたる指を洗わずに 誓子
本朝食鑑(人見心大 元禄10年 1697年)菓部に、
『蜜柑 釈明 橘 香菓(カグノミ)』 とあり、
『昔から橘 柑の区別をしなかったが…
蜜柑という名称はいつごろからあったものかは、
まだ知らない』 と記されています。
蜜柑といつ頃から呼ばれるようになったのか
明らかではありませんが、
尺素往来(永亨~宝正5年 1429年~62年)に、
『金柑、蜜柑、橙橘、鬼橘、柑子』
とありこの頃と思われます。
それ以前は橘が食用柑橘類の総称で、
魏志倭人伝(中国・魏国 220年~65年)東夷伝に、
日本の樹木の中に橘があると記されています。
日本書紀巻第六垂仁天皇の項に、
『天皇、田道間守(タジマモリ)に命せて、
常世国に遣して、
非時(トキジク)の香菓を求めしむ。
香菓、 此を箇倶能末(カクノミ)と云う。
今橘と謂ふは是なり』
垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして
非時香菓(トキジクノカグノコノミ)を求めさせます。
田道間守が苦労の末ようやく探し求め、
帰国してみると十年の歳月が流れており、
忠誠をつくした天皇も
百四十歳というご高齢で崩御された後でした。
落胆のあまり墓前に香菓八竿八縵を供え、
『叫び哭きて自ら死れり。
群臣聞きて皆涙を流す』
と自らの命を絶ちます。
垂仁天皇が亡くならなれたのが
AC99年といわれますから、
魏志倭人伝の頃には
橘も立派に育っていた事と思います。
『橘は実さへ花さへその葉さへ
枝に霜降れどいや常葉の樹』(万葉集巻第6 1009)
万葉集だけで六十九首詠まれており、
かなり自生していたと思われますが、
この内六十二首までが花橘です。
果実というよりは花を観賞したという
イメージです。
続日本記(延暦16年 797年)の
聖武天皇の神亀二年(725年)に、
『初めて柑子東国より来る』 とありますので、
天平万葉の頃すでに
新しい品種の交配も考えられますが、
庶民が蜜柑を口にするのは大分後のことです。
文左衛門より早く江戸へ蜜柑を送ったのは、
滝ヶ原村の東兵衛で、
寛永十一年(1634年)に四百籠出荷して
一籠一両したといいます。