里古りて柿の木持たぬ家もなく 芭蕉
奈良時代から平安にかけて
大嘗会の供物の菓子の部に
干柿、熟柿が入っています。
当時菓子のとらえ方は広く、
大豆餅、小豆餅も入っており、
今日の菓子と思われるものは
唐菓子として分けています。
室町時代の尺素往来(長亨元年 1487年)
菓子部にもまだ干柿で、
いつ頃から甘柿が現れたのかはっきりしません。
本朝食鑑(元禄8年 1695年)に、
『大抵樹の上でなっている儘熟美た柿は
木煉(コネリ)というがこれも御所柿の類である』
をあげています。
少し前の犬枕(1550年~1606年)の狂歌に、
『甘き物砂糖串柿飴や蜜公家上ろうや大稚児の武者』
と甘き物として干柿を詠み込んでいますので、
甘柿といってもそれほどの甘さはなく、
加工なしでそのまま食べられる新種の柿と
思った方が良いかもしれません。
しかし渋柿生産者にとっては
新しい品種の出現は脅威で、
危機感の中で渋抜きの方法を考え出します。
仁勢物語(作者不詳 寛永16~17年 1639~1640年)の上に、
『をかし、男有りけり。
熟し柿とも云わざりける柿の、さすが旨かりけば、
女のもとに云ひやりける。
秋の夜にさはしら柿の味よりも
あわあせざるにも味はまさりけり
柿好みたる女返し、
銭も無き我をば好きと知らねばや
かいなで柿の味よくも食ふ』
とあるさはしら柿は、佐和志柿の事です。
本朝食鑑によれば、
『熟する直前に採取し、石灰を株すか、
あるいは蕎麦の灰汁に二、三浸しておいて~曝乾す』
今までになかった渋抜きです。
かいなで柿は平凡な柿の意です。
江戸小咄聞上手(安永2年 1773年)二篇大上戸に、
江戸と上方の下戸同士の自慢話があります。
江戸の下戸が樽抜き柿を見ただけで
ぼうだらなったと自慢すれば、
その話を聞いているうちに
上方の下戸の顔が赤くなった。
とありますから、この頃すでに酒や焼酎等で
渋抜きする方法が定着していたことになります。