栗落ちて初めて己が影をもつ  馬相


『瓜食めば 子ども思ほゆ  

栗食めば まして偲はゆ

何処より 来たりしものぞ

眼交に もとな懸りて 

安眠し寝さぬ』(万葉集巻第5 802)


「瓜を食べれば子どものことが思われる。

栗を食べれば、いっそう子どもがいとしくなる。

一体、子どもは何処から来たものなのか。


目の前に、しきりとちらついて

私を安眠させないことよ」

(日本古典文学大系  万葉集二 岩波版から

引用させていただきました)


良く知られている山上憶良の

『子等を思ふ歌一首』です。


『三栗の那賀に向へる曝井

絶えず通はむそこに妻もが』(万葉集巻第9 1745)


三栗はイガの中に実が三つ入っていることからの枕詞で、

栗とは関係ない歌の一首です。

憧れの妻の姿に思いを寄せています。


徒然草(兼好法師 延慶3年~元弘元年 1310年~31年)に、

『因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、

かたちよしと聞きて、人あまたいひわたりけれども、


この娘、たゞ栗にのみ食て、

更に米のたぐひを食はざりけりれば、

「かゝる異様なもの、人に見ゆべきにあらず」 とて、

親、ゆるさざりけれ』(第四十段)


とあり、美しい娘で結婚の申し込みが数多くあるが、

栗のみ食べて米等見向きもしないので、

親が心配で嫁に出す事も出来ないと記されています。


室町時代になると栗は武士の出陣のおり、

鮑、昆布とともに折敷にもられて、

縁起物として重要な役割を担うことになります。


出陣の時はカチグリ(様式により五個盛、七個盛)を

二献目に一個食べ、

帰陣の折には祝いとして

初献に食べる作法が確立します。


そこへいくと西鶴は現実的で、

『今年は栗が高いと見えて

算用づく人心もさもし』(西鶴織留巻1)


この頃は重用の節句に

贈る習慣のあった栗の値上がりをしんぱいします。


芭蕉は風流にとらへ、世俗の名利を捨てて

静かに暮らす層のゆかしさに心をとらわれます。


『栗という文字は西の木と書て

西方浄土に便ありと

行基菩薩一生杖にも此の木を用 給ふとかや

世の人の見付けぬ花や軒の栗』(おくのほそ道)

と心境をつづっています。