巡礼や稲刈るわざを見て通る 子規
仁徳天皇(16代 290年~399年)が、
高殿に登ってあたりを眺め、
民の食事に炊く煙が見られないと
嘆き悲しんだ話が古事記下巻に記されています。
『是に天皇、高山に登りて、
四方の国を見たまひて詔たまひく、
「国の中烟発たず。国皆貧窮し。
故、今より三年に至るま
で、悉に人民の課、役を除せ」
とのりたまひき。
是を以ちて大殿破れ壊れて、悉雨漏れども、
都て脩め理ること勿く~
漏らざる處にさけましき。
後に国の中みたまへば、国に烟満ちてり、
故、人民富めると為ほして、
今はと課、役を科せたまひき。
是を以ちて百姓栄えて、役使に苦しまざりき』
日本書紀巻第十一にも同じ話が記されています。
『朕、高台に登りて、
遠に望むに、烟気、域の中に起たず。
以為ふに、百姓既に貧しくて、家に炊く者なきか~
「今より以後、三年に至るまでに、
悉に課役を除めて、百姓の苦を息へよ』
とあり、仁徳天皇の善政の一つとして知られています。
仁徳天皇の御世は、米を主食するようになった
弥生時代から古墳時代に移行の時、
豊かに稔った年は、
登呂遺跡等の復元された住居を
思い浮かべてくださればよいが、
屋根から食事する煙が立ち込めていた事と思います。
この頃になりますと甑が用いられるようになります。
湯をたぎらせた壺の上に甑を乗せて
布を敷き米を入れて蒸します。
この方法が普及してから強飯の時代へと変っていきます。
炊き方も当時はかなり難しかったみえ、
時代は少しさかのぼりますが、
成務天皇(13代 84年~190年)の御世に、
飯炊きの専門職として
性を賜ったという記録もあります。
女性の天皇として名高い推古天皇(33代 554年~628年)は、
豊御食炊屋姫天皇(トヨミケカシヤヒメノスメラノミコト)といいます。
日本文学大系(岩波版)によりますと、
『トヨは鳴り響く音の意、
転じて豪壮の意から、農作の豊穣をいう。
ミケは御食事。カシミヤは炊き屋の意』 とありますから、
常に民の健康と豊かな生活を願った天皇と思います。