ほっこりとはぜてめでたしふかし藷  風生


『さつまいもお七時代はなかったに』

(万句合 明和3年 1766年)


八百屋お七は本郷駒込追分の八百屋の娘で、

放火のかどで天和三年(1683年)に

鈴ヶ森で火刑に処せられています。


後年歌舞伎、浄瑠璃等で、

火事で焼け出されて円乗寺に避難した折、

寺小姓の山田佐兵衛との悲恋物として脚色されています。


川柳の作者は天和の頃薩摩芋はなかったと考証しています。


今江戸で若い娘にもてはやされている薩摩芋が

当時あったなら、

十六才の若い身であれば色気より食い気に

走ったかもしれないと、

論外に感傷をこめたいたのかもしれません。


『小遣いをかすり薩摩を女房買い』(新柳多留21)

と主婦のへそくりから始まり、


『もっと入れなと下女が買う薩摩芋』(柳多留124)

江戸庶民の人気を集めます。


『傾城のおくびに出たるさつま』(万句合 宝暦11年)


遊里の世界でも薩摩芋オンパレードですが、

女性ばかりでなく、若者にも垂涎のまとです。


『尻をつんゆけてさつま芋御用喰い』(万句合 天明3年)


『縛られて丁稚のそばにさつま芋』(万句合 明和3年)

と盗み食いを見つかり折檻されています。


宝暦現来集(山田桂翁 天保2年 1831年)巻の五に、

『寛政五年の冬本郷四丁目番屋にて、

初めて八里半といふ行灯を出し、焼芋売り始めけり、


其以前むし芋計也、

八里半は渾名なりと、九里四り(栗より)美味いと云、』

とあり、寛政まではふかし芋で、

それ以後は焼芋一色となります。


『今は町毎に焼芋売りにて蒸し芋少し』

とふかし芋は姿を消していきます。


『焼芋の釜はしらかべつくりなり』(柳多留72)


『しばらく待たせて丸焼の大さつま』(柳多留107)


『芋でさへ煙をたてる花の江戸』(柳多留121)

の盛況ぶりとなります。