逆光の桐さわさわと土用照  青掦人


土用の丑の日が近づきますと、

平賀源内の『本日土用の丑』とともに、

決まって引き合いに出されるのが

万葉集に出てくる大伴家持の歌です。


『痩せたる人を嗤咲ふ歌二首


石麻にわれ物申す夏瘦せに良しといふ物ぞ

鰻(武奈伎 ムナギ)取り食せ(巻第16 3853)


瘠す瘠すも生ければあらむはたやはた

鰻取ると川に流るな(巻第16 3854)


右は吉田漣老(ムラジオユ)といふひとあり。

字は石麻と日へり。所謂仁敬の子なり。

その老、人と為り身體甚だしく痩せたり。


多く喫飲すれども、形飢餓に似たり。

此に因りて大伴宿禰家持の、聊かにこの歌を作りて、

戯れ咲ふことと為せり』


当時の歌としては斬新で型破りだったと見えて

長い注釈つきです。


石麻さんに申し上げますが、

夏痩せに効き目があるということですよ。

鰻を召し上がってくださいまし。


瘠せながらえて、生きていれば、それでよかろうに、

鰻を取ろうなどとして、

ひょっと川に流されるなよ。

(注釈は日本古典文学大系 岩波版を引用させて頂きました)


家持が敬語を使いいたわっているところをみますと、

師と仰ぐ人物かもしれませんし、

二人は強い絆で結ばれていたようです。


家持がそれほど勧める鰻はどんな食べ方をしたのか

明らかではありませんが、

醤油が調味料として使われるようになったのは、

室町時代に入ってからです。


天平万葉の昔はまだタレで焼く調理方法はありません。


料理物語に、

『鰻 なます、さしみ、すし、かば焼き、こくしょう、

杉焼き、山椒味噌焼き、この他いろいろに用いる』


料理珍味集には、

『鰻汁 根深を五分切りにし、

鰻の骨を抜いたものを五分ぐらいに小口切りにし、

味噌汁にする』


大方はこんな方法で食べていたと想像されます。


鰻の刺身といっても、ご存知のように鰻の血は有毒で

傷口に入ると赤く腫れかゆみがでます。


目に入ると結膜炎を起こすといわれます。


当時の人は肌で感じとっていたのか、

鰻の刺身と言っても生でなく白焼きにして

青酢で食べています。