新春や鰑を噛んで御慶なり  一茶


鶏が先か卵が先かではありませんが、

スルメイカで作ったから鰑なのか、

鰑を作る烏賊だからスルメイカなのかはっきりしません。


鰑の語源は、

言元俤(大石千引 天保5年 1834年)は

『スミメ(墨群)の儀』 としています。


同じ墨群でも大言海はスミムレと読ませ、

スミムレの約転としています。


その他にスルドムレ(鋭群)等の説もあります。


語源大辞典(堀井令以知 東京堂出版)は、

『かって墨を吐くものはスミムレ(墨群)といった。

スミムレがスミメ、スルメに転じたものらしい』

と書かれています。


和名抄(源順 承平4年頃成立 934年)には、

『小蛸魚 知比佐岐太古 一云須流米』

とありますので、蛸もスミムレのグループに

入っていた事になります。


花柳界ではスル(失う)を嫌って、

鰑を当たり目と縁起をかつぎます。

婚礼の昆伊達にも寿留女と書きます。


鰑は延喜式の頃すでに記載されています。


鰑がどんな過程で表舞台へ登場したのか

はっきりしませんが室町時代に

献立に記載されるようになります。


永禄四年?(1571年?)三月末に、

三好筑前守義長が将軍足利義輝を

自宅に招いた席の献立に記載されています。


十七献の料理の最初に式三献があり、

三献目に鰑が出されています。


江戸の頃になりますと庶民の間にも

目出度いものとして結納や婚礼の肴に

使われるようになります。


『昆布するめどらをふうじる道具にて』(万句合 宝暦11年)

親も思案のうちようやく息子を見合いの席に

引きずり出し婚礼へとこぎつけます。


『巻スルメ田舎のおぢは口に入れ』(万句合 安永9年)

婚礼の席で巻スルメは食べてはいけないとされていました。


『まま母がやいてするめはひきさかれ』柳多留55)

息子が嫁を取りほっとしたのも束の間、

今度は嫁に優しくする息子に腹をたて嫁をいびります。


『さあことだ親父寿留女をつまみ喰い』(柳多留96)

今も昔も男と言うものは救いのないものです。