夜は屋根の南瓜を忘れ寝まるなり  辰之助


南瓜の語源は、

ポルトガル人がカンボジアから伝えたのでカボチャ瓜。

つまってカボチャになったと言われています。


草木六部種(佐藤信淵)によれば、

『此物本邦に渡りたるは、

西瓜より百年程以前天文(1532年~54年)

西洋人初めて豊後国に来船し、


国主大友宗麟に種々の物を献じ、

大友の許を得てその後毎年来たれり』

とあり、渡来したのもこの頃するカンボジア説。


関東では昭和の始めの頃までは唐茄子と呼ばれおり、

唐茄子が中国の南京から渡来したとする説が

江戸の頃からありました。


関西ではナンキンの呼び名も

南京から渡来しことからの命名と言われています。


さへずり草むしのゆめ

(加藤雀庵 天保~文久3年 1803年~63年)に、

『今唐茄子とよべる柬埔寒瓜(カボチャ)の一種は

南京国より渡りたる』


唐茄子は南瓜の一品種としています。


南瓜の事を秋田・北陸・中国・四国・九州地方では

ボウブラと呼んでいるそうですが、

ポルトガルでaboboraの転と広辞苑では説明したいます。


大和本草(宝永5年 1708年)によれば、

『それより漸次東方に伝わり、

京都で寛文年間(1661年~1692年)に

初めて種子を蒔いたという』


とありますが、長崎では天正年間(1572年~92年)に

作り始めたといわれており、

秀吉が早くも天正十五年(1587年)に、九州で

試食したと伝えられています。


南瓜は日本人の好みに合い急速に普及しますが、

さへずり草むしのゆめに、

『かの唐茄子は出来たり。

その味柬埔寒瓜のおよぶところにあらず。


ゆえにその種たちまちひろごりて、

寛政にいたりては、

柬埔寒瓜はつひに絶えたるとかたられき~


されば四十年この方に生まれし人は、

柬埔寒瓜のかたちをしらむなるばし。

こゝにそのかたちをうつす』


とあり女性が好んで食べたとあります。