水底を見てきた顔の小鴨哉  丈草


『鴨の足は短けれども継げば憂う』 の諺があります。

鴨の足が短いからと継ぎ足す事は苦痛であり不自然で、

本来の特徴を変える事は愚かであると戒めた言葉です。


出典は古く、中国の戦国時代(紀元前403年~前221年)の

思想家荘周の著、荘子(駢拇)からきているようです。


『長き者も余有りと為さず、短き者も足らずと為さず、

是の故に鳧の脛は短しと雖も、之を続げば即ち憂い、


鶴の脛は長しと雖も之を断てば即ちかなしむ。

故に性長きも断ずる所に非ず、性短きも続ぐ所の非ず、

去れば憂うる所無けらばなり』 と記しています。


庶民にあまり馴染みのない荘子の言葉が、

なせ我が国に入り諺にまでなったかといえば、

仏教からでは思います。


空海の三教指帰(延暦16年 797年)巻下に、

『鳧の足、未だ短しとすべからず。

隠土が鶴の足、長しとするに足らず、

汝等、未だ覺王の教、法帝の道を聞かすや』

この辺りでから出たのではと思います。


『鳧の水掻き』

気楽そうに水の上で遊んでいるかに見える鴨も、

水の中ではたえず水掻きを動かしているところから、

何事もないように見えても、

人それぞれに努力し、苦労もある事のたとえです。


新撰六帖題和歌集(13世紀ごろ)三に、

藤原定家の歌として、

『世にふればかもの水かきやすからず下の心は我ぞ苦しみ』

と詠まれています。


『鳧の水掻き』 の諺とどちらが先かと思います。


『鴨寒うして水に入り鶏寒うして木に登る』

鴨は寒い時は暖かい水の上に遊び、

鶏は地上より暖かい木に登る。

それぞれの特性持ち味で生かして行動する意です。


毛吹草(寛永15年 1638年)に、

『鴨寒うして水に入り鶏寒うして木に登る』

とあり、その他にも、中国元の頃の禅林類聚、

我が国の諺草(元禄12年 1688年)に同じ事が知るさています。