消し廻る灯に果て行くや牛祭 句仏
孝徳天皇(645年~654年在位)に牛乳を献上して
和薬使主を賜った善那と、
類聚三代格(弘仁11年 820年)に記されている
大山上和薬使主福常を同一人物とする説もあります。
福常はクスシノオミの他に、
乳長上(チチノチョウジョウ)の職を任命されていますので、
この頃二つの官名があった事になります。
文武天皇は大宝律令(大宝元年 701年)では乳戸を設けています。
延喜式によれば、その搾乳に使用する用具に、
牛の腹にかける布、乳房を拭く布、牛乳を入れる鉢等記されており、
搾った牛乳を絹の篩にかけるとあり、かなり衛生に気をつけています。
細菌の知識がなくても人体に悪い影響をあたえる事を、
経験で感じとっていたようで、煮沸して飲みました。
円融天皇の永観二年(984年)の医心方(丹波廉頼撰)牛乳の条に、
唐の陣蔵器の本草拾遺を引用して牛乳を服するときは、
必ず一、二回冷えてから飲む(日本食生活史 渡辺 実著)
とありますから、煮沸も中国から伝わったとみるべきです。
それを煮詰めるとどうなるかという発想からか、
仏教の涅槃経の乳より蘇を、酪より生穌(ショウソ)を
出すの教えからか分かりませんが、
延喜式民部省式に牛乳一斗を煎じて穌を一升を
造る方法を教えています。
穌は練乳の事ですが、民部省式に『凡そ諸国に…を貢る』
とありますので、持ち運びが容易だったのでしょうか。
和名抄にある(ニウノカユ)はヨーグルトの
類でないかと考えられます。
栄養に富み天皇、公家等の特権階級に
薬用として愛された穌も、
仏教の影響を受けた肉食禁止令に押されて公の場から姿を消し、
再び脚光を浴びるのは南蛮船渡来の戦国時代になってからです。
江戸幕府が注目したのは大分後の事で、
享保年間(1716年~1736年)に、
房州嶺岡でインドの白牛三頭で始め、
岩本石見守正倫が白牛酪を製造して薬用に供したとあります。